2009年05月26日
日経ビジネス特集「物欲消滅」が面白い
日経ビジネスの特集『物欲消滅―「買わない消費者」はこう攻めよ』が面白かった。購買意欲が減退しているという現状は景気が大きく影響しているのだろうけど、現実にどう各社が対処しているのか、ケーススタディがいくつかの方向性にわかれていて刺激になった。それで思ったこと。
ひとつは、買ってもらう以前に、捨ててもらう設計というか、気持ちよく捨てられる環境作りというのがあるのかもしれないということ。すでに持ち物が多いことというものもちろんあるし、それにくわえて「買う・捨てる」という行為そのものに罪悪感が伴うようだと、やはり二の足を踏んでしまう。とはいえ解決策は、数年で飽きてしまうように商品を設計するとか、壊れやすいモノを作るとかそういう邪悪な方向ではないだろう。ひょっとしたら、リサイクル技術の発達ということかもしれないし、さらにひょっとすると途上国支援との組み合わせかもしれない。アイデアが問われると思う。
仕事でも思いを強くしているところなのだけれど、消費には今かなり「言い訳」が必要とされているのだと思う。商品選択ではなくて、消費そのものに。広告のメッセージは選択の理由づけであることが多くて(他社よりここが優れてます、とか)、そもそもの消費自体を言い訳してくれないことが多いように思う。これは広告メッセージを競合比較などから作りすぎてしまうことの問題だし、さかのぼるのであれば商品企画も他社比較ばかりで進めてしまうことに原因がある。でも今は、選択以前にモノを買うこと自体への言い訳が必要だ。これは世の中全体の消費傾向が単一でなくなってきている(三種の神器とか)ことが影響しているのだと思う。たとえ合理的でなかったとしても、というか合理的でなくたって全然問題ないのだけれど、気持ちよく買える言い訳作りはあってもいいなと感じた。
広告がらみでいうと、以前からの持論である「CM長尺論」を再確認した。記事の中で、商品レンタルを通じて購買をしてもらうビジネスが取り上げられていた。言ってみればこれは広告の敗北のようなもので、実体験をしてもらわなければ効用が実感できないということだ。とくに「いまの、自分のリアリティ」から実感として遠い商品は、レンタルでもしてもらわない限りその効用を実感できない。本当は広告でそれを伝えるべきなのだが、15秒のCMやグラフィック一枚でそれをやるのが厳しいという現状ではないかと考える。CMをやるなら、30秒以上の長尺で、その効用を理解してもらいつつ、CMコンテンツ自体を楽しんでもらえる工夫も同時に必要だと思った。
あとは、商品というのは快感を運ぶメディアだということ。人は、快感(幸福だと、ちょっと言い過ぎかも)を商品を通じて買っている。思い出したのはCDのこと。かつて音楽市場では、音楽という情報をCDというメディアを通じて手に入れていた。ところがデータそのものが直接やりとりできて、物理メディアであるCDが要らなくなると、物理メディアをかませることで成り立っていた市場が崩れてきた。それと同じようなことが起きるかもしれない。もちろん快感はまだ、データのように直接やりとりしたりコピーしたりはできない。けれどもモノを消費することを前提としない「所有から利用」への転換が進んでいく中で、所有→廃棄を前提とした仕事の回し方をすることがリスクになってきているような印象を強くした。モノを持たなくても幸せになれるなら、それはある種の理想社会なわけで、そういった社会のなかで成り立つビジネスというのもありうるかもしれないと思う。
でも、もっとも印象に残ったのは、記事内で成功したとされるいくつかのアイデアは、結果や反響の大きさが想定外のものであったことだ。必ずしも、発案者が思ったような利用のされ方をしていない。小さくてもいいから、新しい仮説を考え、試していくことが重要なのだろう。お金がないから売れないのだ、一択、はい終了ではなくて、色々模索しながら新しい消費のあり方を提案している企業はたくましいし、そこから次の時代の「消費」の姿がみえてくるのだろう。
単に不景気で話が終わらず、消費構造・社会構造にも触れていて、大きな流れがうっすらと見えてきておもしろい記事でした。おすすめ。
ひとつは、買ってもらう以前に、捨ててもらう設計というか、気持ちよく捨てられる環境作りというのがあるのかもしれないということ。すでに持ち物が多いことというものもちろんあるし、それにくわえて「買う・捨てる」という行為そのものに罪悪感が伴うようだと、やはり二の足を踏んでしまう。とはいえ解決策は、数年で飽きてしまうように商品を設計するとか、壊れやすいモノを作るとかそういう邪悪な方向ではないだろう。ひょっとしたら、リサイクル技術の発達ということかもしれないし、さらにひょっとすると途上国支援との組み合わせかもしれない。アイデアが問われると思う。
仕事でも思いを強くしているところなのだけれど、消費には今かなり「言い訳」が必要とされているのだと思う。商品選択ではなくて、消費そのものに。広告のメッセージは選択の理由づけであることが多くて(他社よりここが優れてます、とか)、そもそもの消費自体を言い訳してくれないことが多いように思う。これは広告メッセージを競合比較などから作りすぎてしまうことの問題だし、さかのぼるのであれば商品企画も他社比較ばかりで進めてしまうことに原因がある。でも今は、選択以前にモノを買うこと自体への言い訳が必要だ。これは世の中全体の消費傾向が単一でなくなってきている(三種の神器とか)ことが影響しているのだと思う。たとえ合理的でなかったとしても、というか合理的でなくたって全然問題ないのだけれど、気持ちよく買える言い訳作りはあってもいいなと感じた。
広告がらみでいうと、以前からの持論である「CM長尺論」を再確認した。記事の中で、商品レンタルを通じて購買をしてもらうビジネスが取り上げられていた。言ってみればこれは広告の敗北のようなもので、実体験をしてもらわなければ効用が実感できないということだ。とくに「いまの、自分のリアリティ」から実感として遠い商品は、レンタルでもしてもらわない限りその効用を実感できない。本当は広告でそれを伝えるべきなのだが、15秒のCMやグラフィック一枚でそれをやるのが厳しいという現状ではないかと考える。CMをやるなら、30秒以上の長尺で、その効用を理解してもらいつつ、CMコンテンツ自体を楽しんでもらえる工夫も同時に必要だと思った。
あとは、商品というのは快感を運ぶメディアだということ。人は、快感(幸福だと、ちょっと言い過ぎかも)を商品を通じて買っている。思い出したのはCDのこと。かつて音楽市場では、音楽という情報をCDというメディアを通じて手に入れていた。ところがデータそのものが直接やりとりできて、物理メディアであるCDが要らなくなると、物理メディアをかませることで成り立っていた市場が崩れてきた。それと同じようなことが起きるかもしれない。もちろん快感はまだ、データのように直接やりとりしたりコピーしたりはできない。けれどもモノを消費することを前提としない「所有から利用」への転換が進んでいく中で、所有→廃棄を前提とした仕事の回し方をすることがリスクになってきているような印象を強くした。モノを持たなくても幸せになれるなら、それはある種の理想社会なわけで、そういった社会のなかで成り立つビジネスというのもありうるかもしれないと思う。
でも、もっとも印象に残ったのは、記事内で成功したとされるいくつかのアイデアは、結果や反響の大きさが想定外のものであったことだ。必ずしも、発案者が思ったような利用のされ方をしていない。小さくてもいいから、新しい仮説を考え、試していくことが重要なのだろう。お金がないから売れないのだ、一択、はい終了ではなくて、色々模索しながら新しい消費のあり方を提案している企業はたくましいし、そこから次の時代の「消費」の姿がみえてくるのだろう。
単に不景気で話が終わらず、消費構造・社会構造にも触れていて、大きな流れがうっすらと見えてきておもしろい記事でした。おすすめ。
2009年05月15日
意味不明であることの意味
いい年になってくると、結婚式のおさそいが増えてくる。ジミ婚などと言われて久しいが、結婚式を挙げない人もちらほらいる。理屈っぽく考えると、「二人が愛し合ってさえいれば、結婚式などをわざわざやる意味はないではないか」という気もする。そのいっぽうで、「結婚式は二人のためにやるものではなく、家族と家族の結びつきのためにやるものである」というような意見もある。どちらにせよ、結婚式というものの意味をどうとらえるかが問題になっている。
結婚式にかぎらず儀式というのは、後戻りできない区切りの際に行われることが多い。後戻りのできない決定をおこなうときには、それなりの覚悟が必要だ。結婚式のような大きなイベントを行うことで、後戻りのできない覚悟を獲得しているという見方もできるだろう。
意志決定といえば、会社組織ではしょっちゅう意志決定が繰り返されている。小さいことならともかく、大きい意志決定となれば逆戻りができることはほとんどない。大きな決定は、大組織であれば、慎重に上申され、データの裏付けをとり、取締役会で議論された後に承認されて実行されることになっている。これは失敗の可能性を小さくするためだということになっているが、でも、正直言って儀式じゃないのかと思うこともある。儀式的な行動を繰り返したから、安心して意志決定できるという側面はないだろうか。
この儀式のプロセスに、成功確率を上げるうえで実質的にはそれほど意味がないとしても、それはそれとして必要だと思う。儀式を通過することによって、人々はもう戻れないという事実に納得し、できるだけのことはやったという覚悟を手に入れるからだ。精神状態の違いは、その後の細かい行動に影響する。意味不明でも、儀式をしたということ自体が重要なのかもしれない。
いやむしろ、儀式のプロセスに論理的な意味を持たせることは重要なのだろうか?という視点もありうる。儀式における各行動に下手に意味があると、その意味をよくする・改善しようとして論争が始まってしまうだろう。儀式は、それに参加する人たちが全員納得してこそ意味がある。儀式のプロセスに下手に口を出せない方がいいという考え方もある。儀式を「わからないものをわからないままに処理し、意志決定するための技術」だとすると、儀式それ自体もわけのわからないものの方がいいかもしれない。そういう視点でいえば、「締め切りが来てしまった=時間切れ」というのは意志決定として優れている。
儀式の内容に意味を持たせる・・・ということでいうと下記のエントリはたいへん示唆的なのだけれど、こうなるとこのプロセスやらやり方に対して議論が生まれてしまうだろう。
ところで、儀式が効果的に用いられているものというと、自分のなかでは宗教が浮かぶのだけれど、広告屋的にはお経というのも同じように気になる対象である。
お経は、ものすごく大ざっぱに言ってしまうと、悟りのためのツールということになる。だとしたら、お経は悟りのためのマニュアルであってもいいはずだ。箇条書きになっていて、悟りの条件10箇条とか、悟りのために大切な5つのこととか、イチからはじめる悟り方10段階とか、まあそういうふうに、それ自体が手引きであるほうが効率が良く思える。あるいは、悟りというのはこういう状態!と書いてしまうとか。でもそれはどうやら悪手であるらしい。
ある種、職人の徒弟制のようだけれど、お経それ自体は何も語ってくれない。どちらかというと、「お経を唱える行為とその環境」がさきに考えられていて、そのためのツールとしてお経がある。また、上記のようにリズミカルで反復しやすいような設計だとすると、悟りのための修行を続けること自体がかんたんになることを眼目としているように見える。また、お経を唱えるということ自体のハードルは低い(読み上げるだけ)ので、より多くの人に届きやすいツールであるともいえる。
わからないことには、わからないもので戦え。わからないものを使うことで、わかるようになる環境を作れ。そういう知恵のようなものを儀式やお経からは感じる。
とはいえ、こういった儀式やお経のようなものを「意味がないからやめてしまえ」と言う人に対して、彼らはどう説得してきたのだろう。「意味がないからいいのだ」というと、なんかネタバレだし、それ自体がよくわからない説明だ。「やってみればわかる」と言うのが一番ラクだし、正しいような気がするけれども、それなりの権威がないと通じない。現代では、なかなか意味不明は生き残りにくそうだ。
時を経るにつれ、いままでわからなかったことがだんだんわかるようにはなってきている。でも、いまだにわからないなりに進めていかなければいけないことは多い。そんなときの技術として「意味不明であることの知」は、まだまだ有効な気がする。
結婚式にかぎらず儀式というのは、後戻りできない区切りの際に行われることが多い。後戻りのできない決定をおこなうときには、それなりの覚悟が必要だ。結婚式のような大きなイベントを行うことで、後戻りのできない覚悟を獲得しているという見方もできるだろう。
意志決定といえば、会社組織ではしょっちゅう意志決定が繰り返されている。小さいことならともかく、大きい意志決定となれば逆戻りができることはほとんどない。大きな決定は、大組織であれば、慎重に上申され、データの裏付けをとり、取締役会で議論された後に承認されて実行されることになっている。これは失敗の可能性を小さくするためだということになっているが、でも、正直言って儀式じゃないのかと思うこともある。儀式的な行動を繰り返したから、安心して意志決定できるという側面はないだろうか。
この儀式のプロセスに、成功確率を上げるうえで実質的にはそれほど意味がないとしても、それはそれとして必要だと思う。儀式を通過することによって、人々はもう戻れないという事実に納得し、できるだけのことはやったという覚悟を手に入れるからだ。精神状態の違いは、その後の細かい行動に影響する。意味不明でも、儀式をしたということ自体が重要なのかもしれない。
いやむしろ、儀式のプロセスに論理的な意味を持たせることは重要なのだろうか?という視点もありうる。儀式における各行動に下手に意味があると、その意味をよくする・改善しようとして論争が始まってしまうだろう。儀式は、それに参加する人たちが全員納得してこそ意味がある。儀式のプロセスに下手に口を出せない方がいいという考え方もある。儀式を「わからないものをわからないままに処理し、意志決定するための技術」だとすると、儀式それ自体もわけのわからないものの方がいいかもしれない。そういう視点でいえば、「締め切りが来てしまった=時間切れ」というのは意志決定として優れている。
儀式の内容に意味を持たせる・・・ということでいうと下記のエントリはたいへん示唆的なのだけれど、こうなるとこのプロセスやらやり方に対して議論が生まれてしまうだろう。
遺族感情に「怒り」もあることは間違い無いが、「犠牲者の死を感情として受け入れる」という観点で見ることも必要かと思う。死を感情として受け入れられていない状態では、赦す赦さない以前の問題である。犠牲者遺族の多くは、受け入れるための儀式として何かを必要としている。そして日本では、加害者を死刑とすることがそのための儀式として使われている。
殺人犯を死刑にしても犠牲者は戻ってこないが、「犠牲者が戻ってこない」という事実を遺族が受け入れるためには死刑が必要、と考えてよいかと思う。加害者を死刑にして初めて、犠牲者が戻ってこないことを感情的にも受け入れることができ、そうしてようやく「加害者を赦そうか」という状態になれる。私はそのように推測している。(Rauru Blog » Blog Archive » 葬儀としての死刑 )
ところで、儀式が効果的に用いられているものというと、自分のなかでは宗教が浮かぶのだけれど、広告屋的にはお経というのも同じように気になる対象である。
お経は、ものすごく大ざっぱに言ってしまうと、悟りのためのツールということになる。だとしたら、お経は悟りのためのマニュアルであってもいいはずだ。箇条書きになっていて、悟りの条件10箇条とか、悟りのために大切な5つのこととか、イチからはじめる悟り方10段階とか、まあそういうふうに、それ自体が手引きであるほうが効率が良く思える。あるいは、悟りというのはこういう状態!と書いてしまうとか。でもそれはどうやら悪手であるらしい。
たとえば仏教のお教はなぜあんなに意味不明なのか。お坊さんならいざしらず多くの信者はお教の意味がわかっているか。しかし必ずしも意味が重要であるわけではない。重要であるのは反復し唱えるときにつくりだされる環境である。だからお教はむしろ意味不明であるほうがよい。目的はあくまで反復にあるからだ。意味がわかりやすいと、飽きてしまう。反復しやすいようにリズミカルで意味不明であることが重要なのだ。(なぜ現代の教育の規範は「夢をもて」なのか - pikarrrのブログ)
ある種、職人の徒弟制のようだけれど、お経それ自体は何も語ってくれない。どちらかというと、「お経を唱える行為とその環境」がさきに考えられていて、そのためのツールとしてお経がある。また、上記のようにリズミカルで反復しやすいような設計だとすると、悟りのための修行を続けること自体がかんたんになることを眼目としているように見える。また、お経を唱えるということ自体のハードルは低い(読み上げるだけ)ので、より多くの人に届きやすいツールであるともいえる。
わからないことには、わからないもので戦え。わからないものを使うことで、わかるようになる環境を作れ。そういう知恵のようなものを儀式やお経からは感じる。
とはいえ、こういった儀式やお経のようなものを「意味がないからやめてしまえ」と言う人に対して、彼らはどう説得してきたのだろう。「意味がないからいいのだ」というと、なんかネタバレだし、それ自体がよくわからない説明だ。「やってみればわかる」と言うのが一番ラクだし、正しいような気がするけれども、それなりの権威がないと通じない。現代では、なかなか意味不明は生き残りにくそうだ。
時を経るにつれ、いままでわからなかったことがだんだんわかるようにはなってきている。でも、いまだにわからないなりに進めていかなければいけないことは多い。そんなときの技術として「意味不明であることの知」は、まだまだ有効な気がする。
2009年05月06日
別注というものづくり
90年代、エアマックスとかエアジョーダンとか、そういったスニーカーがとても流行して、社会現象にまでなったことがあった。そしてその当時、有名なスニーカーショップがナイキなどのメーカーに色・柄などの特殊な要望を入れて、オリジナルモデルをメーカーが作ることがあった。これは「別注モデル」と呼ばれていて、とても人気があった。そのショップでしか売られないという希少性だけではなくて、専門ショップならではのセンスの良さが反映されていて、これまたプレミアがついていた。都心に住んでいたわけでもない私は、当時インターネットも当然なくて、手に入らずうらやましく思っていた覚えがある。
そのあと「別注」の流れはアウトドアジャケットやバッグ、さらにそれ以外のファッションアイテムにも波及した。いまは、ビームスやシップス、アローズのほかにもたくさんセレクトショップがあって、それらショップが自分たちのセンスを生かしてメーカーに別注をかけているのを見ることがある。別注というスタイルは、世の中に定着したのだろうなと感じる。
ところでこの「別注」、あたらしいものづくりのスタイルとしてもっと発展させることはできないだろうか。というのは、この別注、メーカーオリジナルのものづくりと、消費者主導型のものづくりの中間あたりにある気がしていて、なにもファッションに限らず広げていけるんじゃないかなという印象があるからだ。
消費者主導のものづくりというのは、言うのはかんたんでも実現は難しい。消費者は必ずしも自分の欲しいものをわかりきっていないし、そもそも「何が作り得るのか」がわからないから、現実感のないものを空想してしまいがちだ。もちろん精度は高めていけるのだけれど、結局「売れなかったときの在庫リスク」というのをうまく共有できないので、無責任になってしまうこともある。メーカー側としても、本当に売れるのかわからない中で消費者に聞いてだけものづくりをするというのは役割放棄にも見えるし、どっちにせよ販売リスクを背負い込むことになる。共同購入のようなシステムもできてきているので、これからということもあり得るけれど。いっぽうで、メーカー側が頭をひねっても限界というのはある。
別注というのは、ある種消費者でもなくメーカーでもない、ただし消費者の好みを体感している存在(靴の場合はショップということになる)を挟むことで、より精度を高めるという発想だと考えられる。このスタイルが面白いと思うのは、別注元であるショップがメーカーと在庫リスクを共有しうることだ。どちらがどのくらいのリスク分担をするのか、それは場合によると思うのだけれど、その企画に自信のあるショップなら、より高いリスクを負うことができるだろう。メーカー側としても、リスクを負ってでもそのセンスを生かしたい別注元というものがあるかもしれない。
ファッション業界の外に出た場合、ショップにあたるところがどこなのかと考えるとさらに興味深い。家電は、家電量販店だろうか?たしかに量販店オリジナルモデルというのはある。食料品なら、スーパーだろうか?こちらもPB(プライベートブランド)商品というものがある。そう考えるともうすでにあるのか、で終わりだけれども、最低限の品質と可能な限りの低価格というバランス感覚以外に、あまり別注元のセンスが生かされていないのが惜しい。
いま自分が考えられるのは、メーカーがメーカーに別注するというスタイルだ。ある程度明確なスタイルを持っているメーカーには、そのメーカーのファンという人たちがいる。アップルやソニーくらいに明確なブランドイメージを持つ企業なら、他のメーカーに別注をするということが可能なのではないだろうか。アップルがスニーカーを作りました、だけでは「うーむ」と思うかもしれないけれど、アップルがナイキに別注をかけて、アップル的な発想で作られたスニーカーなら面白いかもしれない。(iPod×NIKEがすでにあるけれど)
誰しも、いくつか「この発想が好きだ」と感じているブランドなりメーカーなりがあると思う。自分が興味のない別分野でモノ探しをするときに、たとえば「アップル的な立ち位置のメーカーはこの業界ではどれなんだろう?」と探っていくのは面倒くさいかもしれない。また、「アップルぽいトーンの商品はこの業界になくて残念」と思っている人がいるかもしれない。
Webによって消費者どうしはコミュニケーションがとれるようになり、消費者と企業も以前に比べてコミュニケーションを取りやすくなってきた。では、企業同士、特に異分野の企業同士はどうだろう。同じ人物をファンとして抱え合っているかもしれないのに、一緒にものをつくるという発想にならないのはなぜだろう。あるいは、自社を気に入ってくれているお客さんに、より幅広い商品を届けるという発想はないだろうか。もっというと、メーカー同士で顧客を共有するということかもしれない。
すでにもう始まっているような気がするけれど、企業間の別注からはじまるコラボレーションがより活発になっていくといいなと思う。
そのあと「別注」の流れはアウトドアジャケットやバッグ、さらにそれ以外のファッションアイテムにも波及した。いまは、ビームスやシップス、アローズのほかにもたくさんセレクトショップがあって、それらショップが自分たちのセンスを生かしてメーカーに別注をかけているのを見ることがある。別注というスタイルは、世の中に定着したのだろうなと感じる。
ところでこの「別注」、あたらしいものづくりのスタイルとしてもっと発展させることはできないだろうか。というのは、この別注、メーカーオリジナルのものづくりと、消費者主導型のものづくりの中間あたりにある気がしていて、なにもファッションに限らず広げていけるんじゃないかなという印象があるからだ。
消費者主導のものづくりというのは、言うのはかんたんでも実現は難しい。消費者は必ずしも自分の欲しいものをわかりきっていないし、そもそも「何が作り得るのか」がわからないから、現実感のないものを空想してしまいがちだ。もちろん精度は高めていけるのだけれど、結局「売れなかったときの在庫リスク」というのをうまく共有できないので、無責任になってしまうこともある。メーカー側としても、本当に売れるのかわからない中で消費者に聞いてだけものづくりをするというのは役割放棄にも見えるし、どっちにせよ販売リスクを背負い込むことになる。共同購入のようなシステムもできてきているので、これからということもあり得るけれど。いっぽうで、メーカー側が頭をひねっても限界というのはある。
別注というのは、ある種消費者でもなくメーカーでもない、ただし消費者の好みを体感している存在(靴の場合はショップということになる)を挟むことで、より精度を高めるという発想だと考えられる。このスタイルが面白いと思うのは、別注元であるショップがメーカーと在庫リスクを共有しうることだ。どちらがどのくらいのリスク分担をするのか、それは場合によると思うのだけれど、その企画に自信のあるショップなら、より高いリスクを負うことができるだろう。メーカー側としても、リスクを負ってでもそのセンスを生かしたい別注元というものがあるかもしれない。
ファッション業界の外に出た場合、ショップにあたるところがどこなのかと考えるとさらに興味深い。家電は、家電量販店だろうか?たしかに量販店オリジナルモデルというのはある。食料品なら、スーパーだろうか?こちらもPB(プライベートブランド)商品というものがある。そう考えるともうすでにあるのか、で終わりだけれども、最低限の品質と可能な限りの低価格というバランス感覚以外に、あまり別注元のセンスが生かされていないのが惜しい。
いま自分が考えられるのは、メーカーがメーカーに別注するというスタイルだ。ある程度明確なスタイルを持っているメーカーには、そのメーカーのファンという人たちがいる。アップルやソニーくらいに明確なブランドイメージを持つ企業なら、他のメーカーに別注をするということが可能なのではないだろうか。アップルがスニーカーを作りました、だけでは「うーむ」と思うかもしれないけれど、アップルがナイキに別注をかけて、アップル的な発想で作られたスニーカーなら面白いかもしれない。(iPod×NIKEがすでにあるけれど)
誰しも、いくつか「この発想が好きだ」と感じているブランドなりメーカーなりがあると思う。自分が興味のない別分野でモノ探しをするときに、たとえば「アップル的な立ち位置のメーカーはこの業界ではどれなんだろう?」と探っていくのは面倒くさいかもしれない。また、「アップルぽいトーンの商品はこの業界になくて残念」と思っている人がいるかもしれない。
Webによって消費者どうしはコミュニケーションがとれるようになり、消費者と企業も以前に比べてコミュニケーションを取りやすくなってきた。では、企業同士、特に異分野の企業同士はどうだろう。同じ人物をファンとして抱え合っているかもしれないのに、一緒にものをつくるという発想にならないのはなぜだろう。あるいは、自社を気に入ってくれているお客さんに、より幅広い商品を届けるという発想はないだろうか。もっというと、メーカー同士で顧客を共有するということかもしれない。
すでにもう始まっているような気がするけれど、企業間の別注からはじまるコラボレーションがより活発になっていくといいなと思う。
2009年05月03日
ポジショントークで明るい社会
最近、とあるニュース誌(情報誌?)の購読をやめた。記事のレベルはおそらく高かったと思うのだけれど、「その記事がどういう立ち位置の記事なのか」が、よくわからなかったからだ。読んでいて、「ふむふむなるほど。でも、この記事ってどのくらいの立ち位置なのだろう。これについて、みんなはなんと言っているのかな」、そんなことばかり気になってしまって、肝心の内容が吟味できなくなってしまった。
ネットをちょこちょこ見る生活をはじめて10年もまだ経っていないのだけれど、強く思うのは「人は自分に都合のいい情報を集めるし、主張する」ということだ。少なくとも自分はそうだ。これはネット上では「ポジショントーク問題」ということになる。自分のいる業界やら、自分のやっている商売、自分にとって気持ちのいい情報に理屈をつけて出す、その疑いがあるという問題だ。このような問題意識は、客観的な情報が欲しいという欲求から生まれているのだと思う。
でも、このポジショントーク問題、いったん疑念にとらわれてしまうと難しい事態になる。そこらの分析や記事にたいして、「これは書き手の都合のいいことを書いているだけじゃないか?」と疑い続けることになるし、自分の情報収集姿勢にも常に疑念を抱き続けなければいけない。そして、この問題にはいつも明確な答えがない。情報を出している方が謙虚で誠実になったところで、よほど厳密なデータがとれる場合を除いて、無意識でポジショントークをやっている可能性はなお残る。立場にとらわれない意見ということでは、利害関係のない第三者が書いた意見を信頼するという手があるが、ほんとうに利害関係がないのかよくわからないし、利害関係のない第三者イコール部外者であることも多くて、中にいる人ならではの重要なポイントを押さえ切れていないことも多かったりする。
ネットが出始めた頃に、たしか「誰が言ったかではなく何を言ったかだ」というような言論があった。でも、言った内容だけを吟味してそれを利用できるほど、自分は知識が豊富でない。ラベルのついていない、素の言論内容だけを見せられても自分には正誤が判断できない。そもそもその判断ができるくらいのレベルなら、情報収集するまでもないのではないかとさえ言える。かくして、有名な人が出す意見が情報収集としては効率的だ、という結論に近くなってくる。なんだか一周してしまったような気がする。
私はここで、ポジショントークでもいいではないか、という視点を提供したい。問題は、ポジショントークかどうかではなくて、ポジションがよくわからないまま情報が出回るということではないだろうか。冒頭にもどると、購読していたニュース誌のスタンスがわかってさえいれば、その偏り補正は受け手の私が引き受けるということである。受け手の私からすれば、複数の異なる立場から主張される、あるトピックに関する意見を眺めることで、自分の中である程度の客観性をたもつことはできるかもしれないからだ。
マスコミ人でも誠実な人は、「できるだけ客観的に。不偏不党で」という理想を持っている人が多いし、それを要求する人も多い。でも、やはりそれは難しいし、違うと思う。「自分に都合が良くなりがちなのは避けられない」、これをまず認めてしまうという手はないのだろうか。そのうえで、「私はこういう風な立場なので、このように偏り得ます。そのうえで聞いてください」という姿勢は不可能なのだろうか。決して悲観的になったり、諦めてしまうのではなくて、明るく認める。そのうえで、自分の立場を明らかにする。こうすることで、受け手の側にも心の準備ができて、吟味の際の材料が増えるということはないだろうか。客観的というのは最善だけれど、それが混乱を生むならば、次善で勝負するというのはないだろうか。
それは理想とは遠いのかもしれないけれど、少なくとも現実的なアプローチだとは思うし、いまよりも明るくて風通しが良くなるんじゃないかと思うのだけれども、どうなのだろう。
ネットをちょこちょこ見る生活をはじめて10年もまだ経っていないのだけれど、強く思うのは「人は自分に都合のいい情報を集めるし、主張する」ということだ。少なくとも自分はそうだ。これはネット上では「ポジショントーク問題」ということになる。自分のいる業界やら、自分のやっている商売、自分にとって気持ちのいい情報に理屈をつけて出す、その疑いがあるという問題だ。このような問題意識は、客観的な情報が欲しいという欲求から生まれているのだと思う。
でも、このポジショントーク問題、いったん疑念にとらわれてしまうと難しい事態になる。そこらの分析や記事にたいして、「これは書き手の都合のいいことを書いているだけじゃないか?」と疑い続けることになるし、自分の情報収集姿勢にも常に疑念を抱き続けなければいけない。そして、この問題にはいつも明確な答えがない。情報を出している方が謙虚で誠実になったところで、よほど厳密なデータがとれる場合を除いて、無意識でポジショントークをやっている可能性はなお残る。立場にとらわれない意見ということでは、利害関係のない第三者が書いた意見を信頼するという手があるが、ほんとうに利害関係がないのかよくわからないし、利害関係のない第三者イコール部外者であることも多くて、中にいる人ならではの重要なポイントを押さえ切れていないことも多かったりする。
ネットが出始めた頃に、たしか「誰が言ったかではなく何を言ったかだ」というような言論があった。でも、言った内容だけを吟味してそれを利用できるほど、自分は知識が豊富でない。ラベルのついていない、素の言論内容だけを見せられても自分には正誤が判断できない。そもそもその判断ができるくらいのレベルなら、情報収集するまでもないのではないかとさえ言える。かくして、有名な人が出す意見が情報収集としては効率的だ、という結論に近くなってくる。なんだか一周してしまったような気がする。
私はここで、ポジショントークでもいいではないか、という視点を提供したい。問題は、ポジショントークかどうかではなくて、ポジションがよくわからないまま情報が出回るということではないだろうか。冒頭にもどると、購読していたニュース誌のスタンスがわかってさえいれば、その偏り補正は受け手の私が引き受けるということである。受け手の私からすれば、複数の異なる立場から主張される、あるトピックに関する意見を眺めることで、自分の中である程度の客観性をたもつことはできるかもしれないからだ。
マスコミ人でも誠実な人は、「できるだけ客観的に。不偏不党で」という理想を持っている人が多いし、それを要求する人も多い。でも、やはりそれは難しいし、違うと思う。「自分に都合が良くなりがちなのは避けられない」、これをまず認めてしまうという手はないのだろうか。そのうえで、「私はこういう風な立場なので、このように偏り得ます。そのうえで聞いてください」という姿勢は不可能なのだろうか。決して悲観的になったり、諦めてしまうのではなくて、明るく認める。そのうえで、自分の立場を明らかにする。こうすることで、受け手の側にも心の準備ができて、吟味の際の材料が増えるということはないだろうか。客観的というのは最善だけれど、それが混乱を生むならば、次善で勝負するというのはないだろうか。
それは理想とは遠いのかもしれないけれど、少なくとも現実的なアプローチだとは思うし、いまよりも明るくて風通しが良くなるんじゃないかと思うのだけれども、どうなのだろう。
2009年05月02日
多様化だから一人勝ち、多様化したら全員負け
本当なのかどうか確かめていないけど、市場が多様化しているらしい。それと同時に、一人勝ちの商品やら、サービスやらが出てきているらしい。このふたつのことがもし傾向として真実ならば、「ものごとがバラバラになりながら同時にひとつに収束していっている」ような感覚になって、どうも頭が混乱してくる。自分の中で整理するために、補助線を一本引いてみる。
なにかの統計データを見るまでもなく、個々人にとって商品・サービスの選択肢は増え続けており、かつ情報ソースもたくさん得ることができるようになってきている。しかしこれはあくまで、可能性としてそうであるということだ。実際のところわたしの一日は24時間のままだし、わたしの記憶力や好奇心も急に2倍になったりはしない。ここの落差がミソなんだと思う。
だれでも、自分が興味のあるいくつかの分野以外は、素人である。個人が持つ時間と能力が大きく変わらない以上、これからもずっとそのままだ。この状況のなかで、選択肢が無限に増え続けたらどうなるか?自分の興味のあることについてはさらに深く掘り下げる一方で、興味のないことについては今までと同じか、それ以上に素人になるということではないだろうか。
たとえば私は、ガジェットについてはそれなりにうるさい。選択肢が増えれば、その選択肢から欲望の想像力を広げ、さらにマニアックになっていくことが予想される(あくまで、選択肢が増えるのが先だが)。その一方で、シャンプーに関してはまったくといっていいほど詳しくない。売れているもの、安いものを買うだけだ。でも、シャンプーにうるさい誰かというのもいるわけで、そういう人のためにシャンプーだってマニアックな市場が広がっていく。何かにうるさくて、それ以外のものにはうるさくない大勢の人たちを大量に掛け合わせていくと、多様化したマニアックな市場がありつつ、売れている/安い商品が一人勝ちしている市場の状況というものが現れるのだろう。
私が神様で、もしこういった状況を好ましくないと思うなら、世界を分割するだろう。分割された世界にもまだ「一人勝ち」や「マニアックな市場」は存在するが、その落差は小さくなる。現実として起こっているのは、世界が分割される方向ではなく、統合される方向だけれども。
受け手=消費者側としては、それほど問題に感じないこの状況。しかし、企画側=商品やサービスを送り出す側にとってみれば、なかなか頭の痛い問題かもしれない。わたしにとってのシャンプーのような商品は、できるだけ大量に効率よく作ってコストを圧縮するような生産体制にしつつ、わたしにとってのガジェットのような製品ではそれこそ消費者対話型の設計にして、細かいニーズに応えつつ丁寧な物作りをしていかなければならない。この二つのものづくりは体制としてかなり異なるので、どちらでいくかの見極めをしないといけないだろう。このどちらの体制にも振り切れない中途半端な商品もあるので、難しそうだ。
たとえばこれからレコメンデーションの技術が発達していって、シャンプーに興味のない私にとってもそれなりに最適化された、私向きの商品(もし私がシャンプーにこだわったら選ぶであろう商品)が届くようになるのだろうか。あるいは私がシャンプーにうるさい友人に「何を使ったらいい?」と聞くような、こだわりユーザーが作るあたらしい評判市場が生まれ、こだわりユーザーと素人ユーザーをつなぐクチコミ回路が生まれるのだろうか。いまのカカクコムのようなサービスは、不完全ながらこのような姿を目指しているのかもしれない。
いま気になることがあるとすれば、マニアック化していくということは、素人にとって手を出さない理由になりうるということだ。上記の例では、シャンプーという必需品を例に出したものの、これがゲームやアニメだったらどうだろう。「最近のはむずかしくてよくわからないよ」という人は、一番売れているものを買うのだろうか。そういうこともある。しかし、一番あり得る反応は、「よくわからないから手を出さない」ではないだろうか。だって素人なんだから、そんなにもともと興味がない。
多くの市場がマニアック化していくということは、その方面に強い興味がない素人にとってみれば、多くの市場がそもそも手の届く範囲外に行ってしまうということではないだろうか。
同時に、その市場に興味のあるマニアックな人にしてみれば、選択肢が増えたことに喜びつつも、素人が脱落することで同胞が少なくなっていき、市場が大きさを保てなくなって新しい商品が出なくなったり、世の中でたくさん売れている商品と自分たちの好む商品との差が量・質ともにどんどん広がっていって、フラストレーションを感じることが増えるかもしれない。
多様化するから一人勝ちが生まれ、多様化していくほど全体として小さくなる構造が生まれていくのであれば、これは必ずしも喜ばしいとはいえない。補助線を引いたとおり、もともとは個々人の時間や記憶力・好奇心がそのままであることに根っこがある。これを爆発的に広げるという選択肢は、あるのかないのか。ITってそういうことにも使われるべきだし、使われていると思うけれど、もっとスピードをあげなければいけないのかもしれない。
なにかの統計データを見るまでもなく、個々人にとって商品・サービスの選択肢は増え続けており、かつ情報ソースもたくさん得ることができるようになってきている。しかしこれはあくまで、可能性としてそうであるということだ。実際のところわたしの一日は24時間のままだし、わたしの記憶力や好奇心も急に2倍になったりはしない。ここの落差がミソなんだと思う。
だれでも、自分が興味のあるいくつかの分野以外は、素人である。個人が持つ時間と能力が大きく変わらない以上、これからもずっとそのままだ。この状況のなかで、選択肢が無限に増え続けたらどうなるか?自分の興味のあることについてはさらに深く掘り下げる一方で、興味のないことについては今までと同じか、それ以上に素人になるということではないだろうか。
たとえば私は、ガジェットについてはそれなりにうるさい。選択肢が増えれば、その選択肢から欲望の想像力を広げ、さらにマニアックになっていくことが予想される(あくまで、選択肢が増えるのが先だが)。その一方で、シャンプーに関してはまったくといっていいほど詳しくない。売れているもの、安いものを買うだけだ。でも、シャンプーにうるさい誰かというのもいるわけで、そういう人のためにシャンプーだってマニアックな市場が広がっていく。何かにうるさくて、それ以外のものにはうるさくない大勢の人たちを大量に掛け合わせていくと、多様化したマニアックな市場がありつつ、売れている/安い商品が一人勝ちしている市場の状況というものが現れるのだろう。
私が神様で、もしこういった状況を好ましくないと思うなら、世界を分割するだろう。分割された世界にもまだ「一人勝ち」や「マニアックな市場」は存在するが、その落差は小さくなる。現実として起こっているのは、世界が分割される方向ではなく、統合される方向だけれども。
受け手=消費者側としては、それほど問題に感じないこの状況。しかし、企画側=商品やサービスを送り出す側にとってみれば、なかなか頭の痛い問題かもしれない。わたしにとってのシャンプーのような商品は、できるだけ大量に効率よく作ってコストを圧縮するような生産体制にしつつ、わたしにとってのガジェットのような製品ではそれこそ消費者対話型の設計にして、細かいニーズに応えつつ丁寧な物作りをしていかなければならない。この二つのものづくりは体制としてかなり異なるので、どちらでいくかの見極めをしないといけないだろう。このどちらの体制にも振り切れない中途半端な商品もあるので、難しそうだ。
たとえばこれからレコメンデーションの技術が発達していって、シャンプーに興味のない私にとってもそれなりに最適化された、私向きの商品(もし私がシャンプーにこだわったら選ぶであろう商品)が届くようになるのだろうか。あるいは私がシャンプーにうるさい友人に「何を使ったらいい?」と聞くような、こだわりユーザーが作るあたらしい評判市場が生まれ、こだわりユーザーと素人ユーザーをつなぐクチコミ回路が生まれるのだろうか。いまのカカクコムのようなサービスは、不完全ながらこのような姿を目指しているのかもしれない。
いま気になることがあるとすれば、マニアック化していくということは、素人にとって手を出さない理由になりうるということだ。上記の例では、シャンプーという必需品を例に出したものの、これがゲームやアニメだったらどうだろう。「最近のはむずかしくてよくわからないよ」という人は、一番売れているものを買うのだろうか。そういうこともある。しかし、一番あり得る反応は、「よくわからないから手を出さない」ではないだろうか。だって素人なんだから、そんなにもともと興味がない。
多くの市場がマニアック化していくということは、その方面に強い興味がない素人にとってみれば、多くの市場がそもそも手の届く範囲外に行ってしまうということではないだろうか。
同時に、その市場に興味のあるマニアックな人にしてみれば、選択肢が増えたことに喜びつつも、素人が脱落することで同胞が少なくなっていき、市場が大きさを保てなくなって新しい商品が出なくなったり、世の中でたくさん売れている商品と自分たちの好む商品との差が量・質ともにどんどん広がっていって、フラストレーションを感じることが増えるかもしれない。
多様化するから一人勝ちが生まれ、多様化していくほど全体として小さくなる構造が生まれていくのであれば、これは必ずしも喜ばしいとはいえない。補助線を引いたとおり、もともとは個々人の時間や記憶力・好奇心がそのままであることに根っこがある。これを爆発的に広げるという選択肢は、あるのかないのか。ITってそういうことにも使われるべきだし、使われていると思うけれど、もっとスピードをあげなければいけないのかもしれない。

