2008年06月26日

プチ復習の偉人


何年も会社にいると、社の内外を問わず優秀な人に巡り会えることが多い。優秀さにはいろいろな側面があるものの、最近、大切な習慣があるということに改めて気づいた。話は非常に単純で、「復習をする」ということである。

クライアントに行くときは、様々な職群、たとえば、営業職、マーケティング職、制作職それぞれ数人で出かけたりする。そして打ち合わせなりプレゼンなりを終えて、クライアントを後にする。そして、その優秀な人は、こういうのである。「15分だけコーヒー飲んでいきませんか」。さぼろうという魂胆ではたぶん、ない。

こちらのスタッフが5人なり10人なりいると、いったん解散した後の打ち合わせ設定は困難を極める。あの人の都合がつかない、あの偉い人が難色を示している・・・ 結局、次にクライアントに行く直前に、社内打ち合わせが決まってしまったりする。これでは煮詰めたいアイデアも、発酵不足になってしまう。本当は、クライアントの意見を受けたすぐその後に、その復習を兼ねながら次回の作戦を練ってしまうのが早い。でも放っておくとすぐに何となく解散になってしまったりする。そこで、「15分だけコーヒー飲んでいきませんか」。

コーヒー代も何人分ともなれば、しかも毎回であるから、ちょっとはキツいものがあるだろう(経費かも)。でも、そのコーヒー代を補ってあまりある効能がそこにはある。クライアントの意見を受け、まさに頭が活性化している時点で次の作戦を練る。しかも、タイミングが早ければみんなのスケジュールを押さえるのもラクだ。時間が経った後に社内打ち合わせをやるとたいてい、「この前の話は何だったっけ?」となる。それで雑談に花が咲こうなら時間も無駄になる。それを考えれば、鉄は熱いうちに打て。15分のコーヒータイムは大きな効果を持つ。

社内ではなく、取引先にもその手の復習が上手な人がいる。こちらから発注して、仕事をしてもらって、納品を受けて、会計処理をする。会計処理の際に書類のやりとりをするのだが、その書類を機械的に処理せずに、直接手渡しで持ってくる。バイク便なりで送ってしまった方が、本当は効率的だ。でも、手渡しで持ってきて、「今回の仕事で問題はありませんでしたか?」と聞いてくる。メールでときおり顧客満足度調査をやったり、手紙でアンケートを送付してくる会社は多いが、こちらは多くの場合答え忘れる。手渡しの際に口頭で一言二言なら、こちらも抵抗がない。しかも本音が出やすい。うまいやり方だと思う。

仕事においては、事前に「こうするとあのクライアントはこうだから・・・」という予習は割とやるものだ。でも、復習の機会はあまり与えられていないことが多い。多くの場合、クライアントにいったんいけばすぐにみんな解散して帰りたくなるものだし、クライアントだって納品を受けてしまえばフィードバックすることを忘れていたりする。そんなときに、うまいこと機会を作り出して細かく復習することは、労力あたりの効果が非常に高いと思う。予習・復習なんて小中学校レベルの基本ではあるけれど、愚直で小さな復習の積み重ねは、大きな差を生むのではないかと改めて思う。

koukokugyokai at 02:38|PermalinkComments(2)TrackBack(0)業界雑談系 
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2008年06月22日

分析の続きにアイデアがあるか

多くの広告代理店のプレゼンは課題抽出からはじまり、最終的にはプランや広告アイデアを説明する流れになっている。プレゼン上はこれらが流れるように進んでいくのだが、思考の流れはどうかというと、そんなにリニアなものではなく、実作業においては途中に大きな「溝」があり、それを超える必要がある。それを人によっては「クリエイティブ・ジャンプ」と呼んだりする。

有名な広告デザイナーの講習など受けていると、聞いていて「思考の道筋はわかるのだが、なぜそれを思いついたのか?」という事例などによくぶち当たる。なぜ思いついたのですか?と聞いても仕方がない。思いついたから思いついたのだ、ということになってしまう。別にそのデザイナーがコツの出し惜しみをしているわけではなくて、そこには立ち戻れない溝があるということだと思う。

課題を解決しようとするときには、どこを解決すればよいか?という視点で、問題点を洗い出したりする。人によっては、それを階層構造で分けたり、因果関係で再構築したりして、問題を構造化して整理したりする。まるでピラミッドを積み上げるがごとく、一つ一つ問題が積み上がっていく。そして全体の構造がクリアになってきて、「これを解決すればクリアだ」ということが、いくつかの要素あるいはいくつかの道筋で示されたりする。しかし、アイデアが出たかというと、それはそれでまた別問題になってくる。

課題という石ころをひとつひとつひっくり返していっても、そこに突破のためのアイデアは見つからないことが多い。たとえば消費者調査をやって不満点を洗い出し、一つ一つつぶしていくようなアプローチは、ある一定以上のレベルではつぎはぎだらけの張りぼてのようなものとなり、そのうち相互に矛盾をきたすようにさえなってくる。

かくいう私も、過去に思い当たる経験がある。自分の所属している部署の問題点とその構造をさんざん上司に語った上で、「ではおまえはどうするのがいいと思うのだ」と問われ、黙ってしまったのである(それを考えるのがあなたの仕事だろ、と逆ギレしそうになったが)。個人的な不満を起点に行動するとよく陥りがちな罠だとは思うが、そうでなかったとしても問題点からそのままアイデアが出てきたかというと微妙なところだ。

分析屋さん・批評屋さんは必ずしもクリエイターではないし、この二つは連続してもいないのだろう。この二つの職業は、直線では結ばれず、かなり遠いところにある。クリエイターになりたくて、その課程で批評家になるというコースはたまに見かけるが、職能としては全く別個のものだと思う。そこを間違えると、批評家としては大成するかもしれないけれども、クリエイター(アイデアを出す人)にはならないまま、ということもありうるだろう。本人が良ければそれはそれでいいのだが。

ところで広告にはカンヌ広告祭というのがあり、世界レベルで優れた広告を選ぼうという趣旨で、毎年いろいろな広告が選ばれている。部門はいくつかあるのだが、今年のメディア部門のグランプリを例に考えてみる。

ケータイから自分の顔の画像を送る。すると、年老いた自分の顔が加工されて戻ってくる。何のキャンペーンかというと、年金のキャンペーンなのである。年老いた自分を想像することで、年金の問題を自分(とくに若者)に引きつけて考えてもらうことを主眼としている。たぶん技術者からすれば「なんだそんなことか」ということかもしれないし、仕組みだけみれば、よくある占いコンテンツと大きくは変わらない。しかし問題は、もし「若者に年金をアピールするプランを」とオリエンされたときに、このアイデアが出るかどうかである。

当然、オリエンを受ければ、若者の年金感だとか、年金制度の問題点だとか、色々分析のしようはあるだろう。その過程でアンケートをとるかもしれないし、そこでは「年金が身近に感じられない」といった課題が抽出されるかもしれない。分析行為である。で、身近に感じてもらう、感じてもらう・・・というところでおそらくいったん行き詰まる。

ここから先は、順列組み合わせではないが、めぼしいアイデアを探しに行く作業になる。探しに行く先は自分の記憶もそうだし、周りに落ちているネタも探しに行かなければいけない。「若者と年金を結ぶアイデア・・」と唱えながら、その視点ですべての記憶や風景をサーチする。それは、若者分析や年金分析といったものとはまったく異なる作業になる。ゼロから探し始めても途方に暮れてしまうだろう。そのためには、普段から目の前の風景を「アイデアの種」として取り込んでおく必要がある。将来なにに使われるのかはわからないが、ある程度の、ある角度から抽象化したネタとして自分の中に昇華しておくこと。それをするかしないかが、クリエイターか否かを分けると思われる。

そのあたりのヒントは、優れたクリエイターのエピソードからうかがえる。まずは任天堂の宮本氏。
アイデアを出す会議などで、「この問題をどうしよう?」ということを話し合っているときに、当然いろんな人がいろんなこと言うんですけど、たいていそれは、ひとつの問題を解決するだけで、ほかの問題を解決させるわけではない。つまり、汗をかいた分しか前進しないんです。(中略)でも、ときどき、たったひとつのことをすると、あっちもよくなって、こっちもよくなって、さらに予想もしなかった問題まで解決する、というときがあるんですよ。そういう「ひとつのこと」を、宮本さんは「ないか、ないか」っていつも考えてるんです。ものすごくしつこく、延々と。
アイデアというのはなにか?−ほぼ日刊イトイ新聞

もうひとつ、孫引きになってしまうのだが、デザイナーの奥山氏。
僕らの商売には「ハレとケ」ではないが、2つのモードがある。1つめは「溜め」で、自分の中で材料を溜め込み、熟成し、並べ替える作業をしている。これは外から見ても知ることのできない部分で、一見何もしていないかのようだ。もう1つは「発散」で、一気阿成」にアウトプットするモードだ。絵を描き、シナリオを形にし、成果物として世に問う。人はこの部分だけを見て、仕事をしていると思うものだ。
人生を決めた15分 創造の1/10000 - 情報考学 Passion For The Future

ひどく大ざっぱにいうと、彼らは、「どんな問題点に対してどんなアイデアが適用され、その結果どういう解決をもたらしたか」ということを普段からずっと観察し続けているのだろう。それが、いざ仕事となったときに、脳の中で編集されて適用される。その過程には無意識のブラックボックスがあるのだろうが、いずれにせよ最初のインプットがないとはじまらない。アイデア出しは(仕事のオリエンを受けて)分析から始まるプロセスではなく、普段から観察し、編集し続ける一つの姿勢であるようだ。アイデアは一日にして成らず、かもしれない。

koukokugyokai at 06:27|PermalinkComments(2)TrackBack(4)クリエイティブ系 
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2008年06月18日

ウェブの景観問題

高いところから都市をみていると、「おや?」と思うような風景が目につく。

東京の、品川駅前。しばらく前に再開発され、高層ビルが林立している。けれども奇妙なことに、それぞれの高さはほとんど同じで、巨大な壁が立ちはだかっているように見える。もちろん、ビル事業者が小粋にデザインをそろえたわけではない。そもそも小粋ではないし。

同様に、高いところから都市を眺めると、マンション構想部分がナナメに切り立っていることがある。そして、よーくみると、そのナナメのラインはその界隈で揃っており、共有されている。そこには見えないラインがあって、そこを誰もはみ出さないようになっている。もちろん、みんなで「ここにラインを引くとかっこいい」と決めたわけではない。

品川駅前のビルが高さをそろえるのは、航空法があるからだ。羽田空港に品川はやや近いので、高さ約150mの上限がある。マンションの上部がナナメになるのは、斜線制限によるものだ。都市を高いところから観察すると、その手のルールによる、いろいろな形が見えてくる。

ウェブ全体が都市だとすると、そこはどんな風景なのだろう。たまに見る、アイカメラの視点移動記録や、サーモグラフィみたいな世界だろうか。それとも、太い線や細い線がトラフィックとして描かれる風景だろうか。いずれにせよ、重要なのは、そこに描かれた結果自体ではない。そこには高いビルを建てたい建築業者のような存在がいて、斜線規制や高さ規制があるのだろう。

どういうモチベーションがあり、そこに対してどんなルールが働いたのか。

150mにそろった壁ビルや、不格好に並ぶナナメのマンションを「景観が悪い」と批判するのは自由だ。でも、それはどうしてできたのか?伸びよう、伸びようとする建設者の心に、建設基準法がかけ合わさる。もちろん、結果をみて美醜を語ることはできる。しかし、感想から改善案が生まれるかというと、それは難しい気がする。

都市でいうなら、単純に「高さ規制」を加えるのは、手法としてうまくないと思う。結果だけを見て、そこに感想が出て、逐一なんとかしようとする。そうするとどうしても、場当たり的にならざるを得ない。しかし、伸びようとする意志は健在だ。結果、どこかにひずみが出る。仮に高さ上限が厳しく決まれば利用空間が減り、地価が上昇し、居住者は減る。その結果、他の地域に比べて(事業者から見た)競争力は落ちることもある。

ウェブ(の風景)でも似たようなことは、起きているだろうか、どうだろうか。サービスを開発するときに、起きた現象に対して逐一手を打つこと。それが、無理くり「高さ規制」を導入しているのと同じだとしたら。

どこか風通しのよい、高い場所にたって、上から眺めてみる。そういうことをたまにはやってみるべきなのかもしれない。

koukokugyokai at 02:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)完全な雑談 
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2008年06月07日

都合のいい道具

スパムメールというのは、わざと壊滅させられていないのだという都市伝説(?)を聞いたことがある。曰く、スパムレベルの外敵と日常的に戦うことで、免疫力を鍛えられると。もしスパムを一掃してしまうと、いきなり強力なウイルスなどから攻撃されたときにやられてしまうと。まあ、この話はたぶん都市伝説に違いない。でも、ワクチン的というか、面白い視点だと思う。違う言い方をすれば、スパムメールは人を賢くしている道具かもしれない。

プロダクトデザイナーの人と話をしていると、ときおり「便利さに対する嫌悪」のようなものを感じることがある。それは単に「昔は大変だったのにいまは道具でラクしやがって」みたいなやっかみ半分のノスタルジアではない。彼らの頭の中にあるのは、「道具はひとを幸せにするものではあるが、その唯一解が便利さではない」というようなことだ。

たとえば、ブログは必ずしも便利なツールではない。もちろん、何かを便利にするために使うこともできるし、ブログサービスの中に便利なものとそうでないものがあることは確かだ。しかし単にブログという存在を「何かを便利にするもの」という方向だけで捉えたのでは、その本質を捉え損なうのではないかと思う。

道具というのは、何かを便利にすることでしか人を幸せにしないのだろうか?道具があるから、人間は無能になってよいという意味での「便利」が、未来を作る唯一解にはならないだろう。道具がある種、人間の鏡のような存在になり、その反射によって人間がより賢く行動できるようになること。そういう役割を持つ道具は、狭い意味では「便利」ではないけれど、人を幸せにする力を持っていると思う。

人工無脳という概念がある。詳しくないが、「どこでもいっしょ」におけるトロ(猫のキャラクター)が「幸せって何ニャ?」と画面の向こうから問いかけるとき、我々は幸せについて考え直すことになる。この文脈において、井上トロは何かを便利にはしていない。しかしそれは人間を賢くする・・あるいは人間の能力を引き出すということにより、人間そのものに対してなにかポジティブな影響をもたらしてはいないだろうか。井上トロは、幸せとは?の答えを出してはくれない。しかし、「幸せとは何か?」という問いをつくることで、ある種の答えを出してくれてはいる。

Webの高速道路論」でいうならば、高速道路としてのWebはそのうち建設過剰になるだろう。Webがもし「すばやく回答を取り出し、学習を助ける便利な道具」であるならば、だが。しかし「道具の性能は便利かどうかで決まる」という束縛から解き放たれれば、まだまだ発展の可能性がある。その一つの方向として、問いをつくる、そしてそのことにより人を賢くする、ということが考えられる。

「都合のいい人」は、「いい人」と必ずしも同じ意味ではないだろう。とするならば、「都合のいい道具」、便利な道具だけが必ずしも、「いい道具」というわけでもない。人を賢くすることだけが「いい道具」の条件でもないだろうけど、「いい道具」に囲まれることが、いい生活に結びつくような、そんな気がする。

koukokugyokai at 05:00|PermalinkComments(0)TrackBack(1)完全な雑談 
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2008年05月06日

広告が環境に溶けていく日

しばらく前から自分はゲームについての本を読みあさっている。それは私がゲーマーであるからではなく、何となくこれからの広告の道を示唆する何かがゲームというものに潜んでいると考えていたからだ。もちろんそれはテレビゲームの中に企業名を仕込むとか、そういうことではない(いわゆるゲーム内広告)。もっと大きなところで、広告のメッセージ構造の転換があると考えている。

とても示唆的な言葉が斉藤由多加氏の著書「ハンバーガーを待つ3分間の値段」に書かれていたので、長いけれども抜粋する。

ゲームの企画者の意志やメッセージはどこに表現されているのでしょうか。それは、実は、「枠組み」そのものに込められているのです。(中略)『シムシティー』というゲームはシミュレーションのお手本というべき名作です。(中略)悪化した住環境を改善するには・・・?その答えは「公園を作ってやる」ことです。(中略)このゲームのプレイヤー達はやがて口々にこう言いはじめます。「環境が悪くなったら公園を作ってやればいいのさ」と。この言葉こそウィル・ライト(『シムシティー』の作者)からのメッセージなのです。ゲームのクリエイターによるメッセージというのは、実は画面内から発せられるものではありません。プレイヤーが自分の口から発するべきものです。

たとえば2ちゃんねるというものがあるけれども、あのメッセージは何だっただろうか。2ちゃんねるというシステムの中に内在するルールは一つでないけれども、たとえばメッセージとして導かれるものの一つが例の「嘘を嘘と見抜けない人は(掲示板を使うのは)難しい」という、あの言説である。これを実際に口にしたのはひろゆきであるが、一般の人々も、2ちゃんねるというルールの集合体を利用することを通じてそのメッセージを感じ取る。別に2ちゃんねるのトップページにそのことが直接メッセージとして書かれているわけではない。ポイントは「ルールに基づいたシステムを利用する中から感じ取る」のである。

これは社会学文脈で言われる「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」への変化と近いのかもしれない。従来型の広告はつまるところ広告主が「これを買うといいよ」というメッセージを何度も何度も伝えることで、人々の頭の中に流行意識を埋めつけ、結果として意図した購買行動を導くものであった。それが今後、人々はなんら広告の顔をしていない何か−2ちゃんねるのようなシステムなのかテレビゲームなのかわからないが−を使っているうちに、その制作者が意図したとおりの購買行動に導かれていくのかもしれない。まるでシムシティーにおいて人々が「公園を作ればいいのさ」というように。

5年後、あなたはある都市開発ゲームをした。攻略のためには、都市に住む人々がレジャーに出たり、互いの家を自由に行き来できるようにする必要がある。しかし一方で、公共交通では犯罪が発生する。自動車の利用が効率的なのだが、環境問題との兼ね合いを考えなければいけない。あなたは言う、「ハイブリッドカーを導入すればいいんだ」。このゲームに、実はスポンサーがいたとしたら?

10年後、あなたは画期的な英語勉強のネットサービスを目にした。無料で英語が勉強できる。実際に外国の人と画面を通して会い、会話をし、学ぶことができる。相手の外国人はプロ教師ではなく、現地の一般人だ。プログラムの節目には、「旅行に行く」「パーティーをする」という項目がある。あなたはそれを実行するために、航空券のチケットを買い、その外国人の所へ旅行に行き、パーティをする。この英語学習サービスに、もしスポンサーがいたとしたら?

ネット以降の広告クリエイティブにはすでに転換があって、それは一言でいうと「伝えた後のことを考える」ということだ。伝えてハイ終わりではなく、ツッコミを入れるのか、ネタとして友人に紹介をするのか、不明な点を知りたくて検索をするのか、とにかく行動を起こしてもらうことも含めて設計されているということが特徴として存在する。これらのことも大きく見れば「広告の顔をしない広告」のはじまりであって、まだ最初に投下される刺激のところに広告主の顔が出ている点で、顔は見えているとも考えられる。

しかし、(多少角度が異なるものの)「プロダクト・プレイスメント」と呼ばれるような、ドラマの中に広告主の商品をさりげなく登場させるような仕組みにおいては、それが広告行為であるということの明示は薄くなっていくわけで、そういうものを見ながら同業者として微妙な気分になることはある。(※現在のプロダクト・プレイスメントはCMで広告主の商品が出てくるので、まだ顔は見えている。)最終的に、それが昔あった「サブリミナル広告」的な方向性に行かないとも限らない。

「広告はこれから情報としての機能を求められている」的な、消費者の役に立つ情報を出すという論調もわからなくはないのだが、広告は広告主がわざわざお金を出して行う情報発信である以上、完全に消費者にとって都合の良い情報になるとは限らない。すでに情報自体は個々の消費者が浴びきれないほど大量に漂っているのであって、そこへ半端に中立を志向した情報広告が紛れ込むことにいったいどういう意味があるのかということも判断に困るところだ。

結局わからないのは、消費者が明確に把握することのできないメッセージをルールに埋め込むことの倫理的な意義である。幸いなところ、上述したようなメッセージの仕込み方をしている広告活動には(自分の知る限りでは)ほとんど見あたらない。周りにも、「意図的に」そういうプランニングをしている人はいないようだ。(無いとは言わないが、全くもって原始的なものだ。)しかし、ゆるやかに広告を取り巻く状況が変化していく中で、単に各媒体の予算の取り合いといった側面とは別に、より深刻な、倫理的な問題を含んでいる構造変換が訪れるとも考えられる。

そうなったときでもまだ、自分が広告業を続けたいと思うのか、それもわからない。しかし少なくともこれは広告の顔をした広告活動ではない。そして、サービスに提供者名(広告主名)を単に出しておけばいい話なのかもよくわからない。マッドサイエンティストのごとく、知的好奇心だけを頼りに突き進んでいくのか、それはもう少ししてからわかってくることなのかもしれない。

koukokugyokai at 00:50|PermalinkComments(5)TrackBack(0)業界雑談系 
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2008年04月21日

批評に足る広告はなくなったか

雑誌「広告批評」が来年休刊するようで、いろいろな広告系ブログで言及がある。自分はあまり熱心な読者でもなかったが、ちょっと気になった。思うに、広告の批評は広告プラン(ニング)に対してなされてきた。そして、広告プランニングが疎外されていくという状況の中で、対となる批評行為も成り立たなくなっていくかもしれない、という話だと思う。ここでいうプランニングとは、メディアプランニングだけでなくて、マーケティングやクリエイティブ開発全体を含んでいる。そして、これは業界全体に発生している構造問題だ。

プランニングというのはプランナーの労働に紐付いているので、マス向けだろうが、ネット向けだろうが一定の金額がかかる。で、もともとテレビ中心のマス広告の時代では、メディアの絶対金額が大きい=コミッションが大きいのでプランニングはタダ同然で提供しても十分に仕事が回った。いや、おつりが来た。悪意のある言い方をすると、この「おつり」が広告批評だったとも言える。一方、小規模のネット広告予算でプランニング作業を成り立たせるのは難しい。ガサが小さいので当然コミッションも小さい、しかし「プランニング=タダ」という業界常識はある。そんな中で、一つ一つの案件でニュートラルにプランニングをするのは厳しいだろう。プランニングの疎外問題だ。

結果何が起きるかというと、まだ余裕のあるマスの部分(総合代理店)でプランニングを行い、あとからネットの現場に「これに合わせて作って」のような乱暴なオリエンがぎりぎりのタイミングで行く、とか。そもそもマスのところでプランニングされた内容はネットの展開を前提にしていないので、ネットの人はその対応に苦慮するし、かといってネットで独自にプランニングするほどの余裕がない(上述)なので、ネットはメディアのハンドリングでいっぱいいっぱい、ということが起きていると思う。誰かの努力が足りないのか?よくわからない。最近では、マスにさえ余裕がなくなってきた。

最近は現場にいないために不明な点も多いが、ソーシャルメディア対応も「やれば目立った」時代が終わり、質が問われてくる中で、一部のジャンルを除けば費用対効果も厳しくなってきて、プランニングの難易度だけが増していく・・という状況が発生しているように見受けられる。費用対効果はそもそも他社比較で語られるべきものではないが、これは企業における意志決定慣習の問題なので言ってもしょうがない。結果プランニングをだれもする余裕が無くなる・・という「プランニング疎外」の最前線がここにあるのかも、しれない。

数年前と同じ結論になるのだけれど、プランニングというものの対価をどう考える・取るべきかずっと放置しておいたら、いつの間にか対価が回収できない社会情勢になりました、ということではないだろうか。これは構造の問題だ。誰もちゃんとした収益構造を作らなかったからこうなったという努力問題に帰することもできるかもしれないが、だからといって、現場はもっとタダ働きでプランニングしましょうという努力論では突破できないだろう。

自分の経験からというか、希望的観測も含めて言ってしまうと、むしろプランニング費ははっきりと乗せて見積もりを出していい。そのうえで、「われわれはきちんとプランニングするのでお金を取ります」という覚悟を持つこと。実際には、なかなか受け入れられなかったりもする。でも、すべてのクライアントがそうだというわけではない。そもそも無料で提供されるプランニングでは、責任を取る意識がないから真剣さがないし、期待もされない。ここは、集合知でなんとかなるってものでもない。

プランニングだけで500万取りますといえば、クライアントの顔はこわばり、緊張が走る。けれども、緊張関係があるからいいものを提供する気合いも高まるのであって、なあなあでやっても仕方がないし、ひたすらディスカウントを求める企業と仕事をしても仕方がない。きれい事ではなくて、実際それでお金はとれる。逆に、プランニング単発1000万とか取るスタープランナーが今後出てくるだろう。コミュニケーション・デザイナーとか、呼び名は違うのかもしれないし、いわゆるクリエイティブ・エージェンシーなのか、フリー系のプランナーなのか、凄腕フラッシャーなのか、そこはわからない。その一方で、プランニングが不要というか、ほぼ機械でやってしまうような仕事も今後増え、それは単にメディアを回すだけになるわけで、プランナーの中でも格差社会ができてくるはずだ。

ともあれ、たまたま大きい金額だったマスメディア予算にぶら下がるプランニングではない、真剣勝負のなかで磨き上げられたプランニングが今後生まれてくると思うし、そうなれば以前以上に批評行為も盛り上がると思うのだが、どうだろう。

koukokugyokai at 07:13|PermalinkComments(0)TrackBack(1)業界雑談系 
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2008年04月20日

ケータイ市場に学ぶ

携帯電話の機種変更を久しぶりにしようとして驚いた。携帯電話が高くなっている。私の記憶では「携帯電話=0円」という発想だったのだが、今のキャリア(ソフトバンク)では必ずしもそういう感じではなくなっているようだ。友人にそれを言ったら「古い」と笑われたが、まあそういうものらしい。

ところで、ずっと放置していた料金プランも含め色々と見直しながらWebを徘徊していたのだが、携帯電話における「囲い込んでカネを取る」知識はすごいな、と思った。単発の、文脈と切り離された商品購買とは別に、世の中には囲い込み系と呼ぶべきビジネス領域がある。メモリースティックやitunes、ポイントカードなども似たようなものだが、業界の参入障壁から端末、料金プラン、課金制度まで含めていろいろ手だてがそろっている携帯電話は、この手のビジネス知識の見本市のようだ。

で、いろいろ見ていて、こんなニュースを目にした。
携帯電話やネット接続サービスで通信事業者各社の料金設定が複雑化し、利用者に分かりづらいと不評だ。総務省は18日、各社のサービスを簡単に比較できるシステム構築などを議論する有識者懇談会を設置すると発表した。 例えば携帯電話サービスには、各社にさまざまな割引プランがある。ただ、長期の契約が求められたり、割引適用に複雑な条件が付けられるなど、利用者はどのサービスが一番自分に適しているのか分かりづらいのが実情だ。(MSN産経ニュース

これを本気でやったら、携帯電話ビジネスが大分変わるんじゃないかと思う。携帯電話業界はソフトバンク参入以降変わったように見えて、そんなに変わっていない。何が変わっていないかというと、流動性を低いままにしておくことで、業界全体の収益性を保つ、という点だ。もちろんMNPがあって流動性は少し変わったかも知れないけれど、メルアドが変わってしまうことが実質的にそれを妨げていると思う。

で、なんで複雑さの解消が重要なのかというと、こういうデータを見たからである。
乗り換え自体の人数はじょじょに減少傾向にあるが、2007年6月〜11月の半年間に携帯電話を「乗り換えた」人は、携帯電話ユーザのうちの4.2%に留まった。一方で「乗り換えを検討したが乗り換えなかった」人はその約3倍(12.0%)もいたことが明らかになった。乗り換えなかった理由としてもっとも多いのは「乗り換えの手続きが面倒だから」で32.4%、次に多かったのは「メールアドレスが使えなくなるから」で29.8%、「現在のポイントや特典が使えなくなるから」で26.2%となった。また「料金プランが複雑でよくわからないから」(25.7%)、「乗り換えにかかる費用が高いから」(24.5%)も多くの人が指摘している。(RBB TODAY

携帯電話の戦略というのは、いかに現ユーザーを縛り付けておいて、新ユーザーを甘い言葉で取り込むかということに尽きる。たとえばソフトバンクでいうと、新スーパーボーナス(ローンで端末を買う制度)は現ユーザーを縛るためのものだ。「他社発表から24時間以内に値下げする」、などの公約は新ユーザーを取り込むための甘い言葉のひとつだ。

そして複雑な料金プランに関しては、現ユーザーの縛り付けに加えて、安直なユーザーからお金をより取る施策も兼ねている。たとえば「○○が3ヶ月無料!」とか、そのたぐいだ。これは最初無料にしておいて、忘れた頃に料金が発生する。人間が忘れやすいことを利用したプランの組み方だ。何も嘘はついていないのだが、結果として高収益がねらえる。こういう役割を持った複雑なプランが禁止されると、痛手は大きくなるかもしれない。

そういえば、かつてケータイサイトの話で、「PCサイトに比べて遙かに課金がラク」と聞いたことがある。ひとつは課金のシステムが出来ていて、サービス月100円など徴収することが簡単だという話なのだが、それ以外に、ケータイでは特に若者向け課金がラクらしい。聞くに、親が料金を支払っている場合、そういった課金をあまり気にしていないからだという(要はあんまり明細を見てない)。

道義的にはともかく、携帯電話のビジネスには学べる(?)ところがたくさんある。人間の面倒くさがる気持ちを利用して、複雑なプランを用意し、結果として流動性を低めてビジネス全体を守る。そのうえで、人間の忘れっぽさを利用して、安そうなプランを提示し、毎月の利用料から時間をかけて儲ける。料金プランを作ったり、店舗へのインセンティブを設計したり、広報関連でメッセージを発したりしている人は、かなりの切れ者に違いない。

私は簡単に見てみただけだが、ちゃんと調べれば、ほかにもいろいろと知恵がころがっていることだろう。今後の推移も含めて、携帯電話業界はかなり熱くなりそうだ。

koukokugyokai at 04:33|PermalinkComments(1)TrackBack(0)マーケティング戦略系 
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2008年04月14日

ネットサービスの普及と翻訳、強引モデル

ネット上を徘徊して定期的に目に入るトピックスとして、サービスの普及についての文章がある。とりわけネット上ではネットサービス、たとえばRSSやソーシャルブックマーク(SBM)などが話題になる。曰く、「なぜ一般普及しないのか?」

もちろん、ニーズがない=そこで提供される価値を多くの人が欲していない、ということはある。本質的にそこに壁があって、どうしようもないということも確かにあるのだろう。ただ、それを論じるにはまだ早いという気がしなくもない。思うに、この問題の一つのカギは「翻訳の仕方(あるいは、翻訳を誰がするのか)」である。

おおざっぱに言って、人間は新しいものを既存の枠組みを利用することで理解しようとする。すでにある、似ている何かを通じて理解するのが早いからだ。これは偏見を生んだり、誤りを生んだりするけれども、なによりもスピードが速いし、既存の文脈で理解できることは本人にとって非常に楽だし、安心を生む。

機械音痴という言葉がある。なぜ機械音痴はうまれるか。彼らは機械に共通するある種のパターンを把握していない。機械が得意な人だって、生まれつき機械をわかっているわけではない。機械(とその設計)に共通する、いくつかの振る舞いを把握しているので、精度の高い操作仮説が出せるということだ。単純なところで言えば「電源は緑ボタン、録音録画は赤ボタン」など。

サービスの普及に関しても似たところがある。既存のパターンでいかに理解してもらうか。そのためには翻訳が必要になる。どう翻訳するか。それを誰がするのか。

たとえばブログ。日本人はブログをよく書くらしいのだが、その普及においてmixiの果たした貢献は大きいと考える。そのとき、mixiの勝利は交換日記のフレームでブログを理解させたことだと思う。ブログという概念をそのまま構造的に説明しても、多くの人にとってはよくわからないものだ。そして大変重要なことは、多くの人は「なんだかわからない構造の説明から、それが自分にとってどう役立つか、どう使って楽しむかを想像するほどヒマでない」ことである。みんながそんなに知的好奇心旺盛なら広告なんて要らない。

ただしブログに関しては、実際は全世界に公開されうるわけだから、「本当は」交換日記という例え方はちょっと違う。最近ネット上において「(ブログとは)公園で演説することに近い」というたとえを見つけたが、まあ本当はこういうことに近いかもしれない。でも、もしこういう例え方で広めようとすると、普及率はグッと下がるだろう。交換日記を書くのはやぶさかでなくても、公園で演説したい人はそう多くないからだ。

携帯電話もそうだ。どこかのブログで、「携帯電話のネーミングは素晴らしい。これをトランシーバーと最初に名乗っていたら違っただろう」という趣旨の記事があったが、その通りだと思う。いまや携帯電話は電話の機能がオマケになりつつあり、ネーミング云々の段階を超えているが、普及初期においてはこういうことが大きな影響をもたらす。

iPodは革新的な製品だ。しかし、この製品の普及にはウォークマンの力が大きい。「音楽を貯めておいて、出先で聞けること、それは楽しいこと」という概念はウォークマンによって構築された概念だ。たしかにiPodの「Pod」はそこを表現してはいるが、もしウォークマンが以前になかったら、そのコンセプトを理解するために多くの翻訳コストを必要としたことだろう。

良いものであれば必ずしも売れるわけじゃないし、いいことであれば自然に伝わるわけではない。もちろん大ざっぱにそういう傾向はあるし、長期的にそうなる可能性はある。しかし企業社会で起きていることは、すぐに結果の見通しが出なければ却下や廃止の憂き目を見させられる意志決定システム、そしてちょっとでもいいものを見つければ類似品を出して全力で広告展開を仕掛ける競合メーカーである。そしてなにより一般消費者は、新しいものを自前で翻訳することがあまりない。

翻訳が生み出す「コミュニケーションのスピードの速さ」は重要である。紹介した翻訳の事例は、サービス構造や利用の仕方を説明したものだが、単にそれが「価値あるもの」だとういうだけの翻訳も、力技だができなくはない。アメブロが芸能人ブログを大量に生み出したのはこういう文脈だと思う。ネット上ではあまり見かけないが、とかく芸能人というのは侮れない。彼らの影響力は大きい。「芸能人の○○が使っている」ただそれだけでいいというスピードの速さ。

話をもどして、RSSやソーシャルブックマーク。仮にこれらのサービスに対して「本質的なニーズ(潜在ニーズ)」はあったとして、普及率を高めるにはどうしたらよいか?ひとつは、前述のようにうまく翻訳することだ。すでに、各社が色々試した形跡はある。ブックマークという名称自体が「しおり」だし、「クリップ」という名称をつけている会社もある。だが個人的には、正直言ってこの二つのサービスは翻訳しにくい。ブックマークなら「本棚」「投票」「スクラップブック」、RSSなら「郵便受け」などが思いつくが、これではまだ甘いと思う。凄腕コピーライターの意見を聞きたいところだ。

色々考えた結果、翻訳ができないものもあるだろう。しかしだからといって「ニーズがない=普及しない」というのもまだ早い。だいたい、そもそもが「インターネット」は、うまい翻訳が浮かばないツールの一つだ。
インターネットが技術者や専門家ではなく一般に利用される機会が増えるにしたがって、インターネット上の一機能であるWorld Wide Web(さらにはウェブページやウェブサイト)のことを指して「インターネット」「インターネッツ」と呼ぶ誤用が世界的に広まっている(英語版Wikipediaほか他の言語版のWikipediaを参照のこと)。また、「インターネット」という語をインターネットへの接続権(プロバイダとの契約)や接続に必要なパソコンやルーターなどといった機器・設備などの名称と誤解している例もあり、「インターネットを買った」「どこのインターネットにする?」「インターネットが壊れた」といった誤用もまれに見られる。Microsoft社製のウェブブラウザの名称がInternetExplorerであるため、インターネット上に存在するウェブページを見るためのツールを「インターネット」と呼ぶ誤用はよく見られる。一般的には、「ウェブブラウザ」と言うよりも「インターネット」と呼ぶほうが伝わる。(インターネット - Wikipedia

ここに挙げたのは、インターネットに関する「よくある誤用」である。これを見て「バッカでえ」というのは簡単だが、この文が示すのは、インターネットを従来の文脈上でなんとか把握しようとして(自分で翻訳しようとして)失敗している人々の姿だ。もちろん今なら、インターネットはそれ以外のものに例えなくても「インターネット」それ自体として理解されるだろう。しかし普及期には、こういうことが起こる。

翻訳の話から外れていくが、インターネットはその普及時期において、学校や会社にあるPCの力が大きかったと思う。こういうある種、強引に人を引き込む機会があったからこそ、翻訳ができず、概念的に難しい「インターネット」が普及していったのだろう。使えば便利、それは確かだとしても、ある程度暴力的に使ってもらう機会がなければいけない。

いい加減、文章が長くなってつらくなってきたので簡単にまとめたいが、RSSやソーシャルブックマークに限定していうならば、本質的なネックは翻訳の難しさに加え「極度に個人ツールであること」と思う。このブログを読んでいただいている方にとっては「またか」な結論かもしれないが、個人で完結するものは普及しづらいのである。これらのツールは、出力はソーシャル=共有されうるものなのかもしれないが、入力作業は個人的な動機がもとになっている。この個人性が難しい。

ヒントとしてパッと思いつくのは、「プロフ」である。プロフは、個人を反映させたものながら、コミュニケーションツールである。あるいは奇策として、企業研修や学校の授業にまず導入するというもあり得るかも知れない。インターネットと同じ普及モデルを探るのである。とにかく、翻訳が難しいなら、何らかの縛りをかけて強引に普及させるしかない。本当にそれが価値のあるものならば、だが。

今後もいろいろと新しいサービスはネットで生まれてくるだろうが、翻訳を誰がどうやってするのか、翻訳が容易でない場合の強引普及のコストとモデルをきちんと考えているのかどうかがポイントになるかもしれない。

koukokugyokai at 01:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0)マーケティング戦略系 
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2008年04月07日

アイデア出しと修行

宗教などでよく聞く「修行」という言葉。
自分などは、反射的に「滝に打たれる感じ」を想起するのだが、
仏教ではもともと「歩くこと」という意味だったらしい。

歩くこと、といえば、アイデア出しの達人などは
散歩が好きで、歩いているときによく思いつくという話を聞く。
シャワーを浴びているときとか、トイレにいるときなどの意見も聞いた。
深く意識せずにできる(反復的な)行動を取っているときがよいらしい。

少し疑問がわく。
なんで、悟りたいのに、アイデアを出したいのに、歩く必要があるのか。
それに集中してはいけないのか。

もし、非常に「進歩的な」宗教者が出てきて、
いやあ悟りに修行は不要なんですよ、といったらどうだろう。
宗教に詳しくないが、もしかしたらそういう宗教はすでにあるのかも。
10万円出してこの本を買えば、悟りに達しますよ、みたいな。
あるいは「歩かなくてもアイデア出ますよ、このマニュアルがあれば!」みたいな。

そもそも修行では、なぜわざわざ苦しいことをやっていたのだろうか?
苦しいことをやれば何かが得られる、という認識をしがちな人間のミスなのだろうか。
そこには、何らかの叡智があるのではないだろうか。

おそらくだけれども、あの滝に打たれる作業「単体」には意味がないだろう。
その作業自体が悟りを生み出すわけではない。
そういう文脈でいうと、あの苦行はやめてもいいのかもしれない。
でもおそらく、あれをやめてしまうと、悟りには達しない。

こう考える。
滝に打たれたり、念仏を唱えたり、歩いたりしているときは、集中がそがれている。
何かについて考えるのに、わざわざそれ以外の行動を一緒にするのはなぜか?
ここで一つの仮説がうかぶ。
「意識を集中する」というときの「意識」は、ときによっては邪魔でしかないということ。

複雑で、抽象度が高い、深い思考というものがたぶんある。
我々がふだん、「考えている」と認識しているのは、浅い思考だと思われる。
意識上で、あれこれと概念操作を行うことが、浅い思考にあたる。
アイデア出しや、悟りやらに関する思考は、深い思考がたぶん向いている。
深い思考をするためには、いったん浅い思考を止めなければならない。
浅い思考を止めるための麻酔薬が、おそらく「修行」やら「歩くこと」だと思う。

深い思考は、無意識との対話というふうに言い換えてもいい。
悟りだのアイデア出しだのをするときには、無意識との対話が必要なのだと思う。
人間の意識上の思考というのは、割と浅くて、おそらくは緊急用でしかない。
しかし人は、それこそ無意識的に、意識上の思考というのを始めてしまう。
それを麻痺させ、止めるために、修行というものがある。
修行におけるあの作業は、大きな、考えるプロセスの一つとなっている。

逆説的だけれど、集中的に考えるために、あえて別のことを同時にする。
浅い思考がはじまってしまうことを防ぐために、麻酔をかけることが必要なのかもしれない。
そのうえで、無意識との対話=深い思考、を意識的に仕掛けてみる。
かの有名なセリフ「Don't think,feel」は、そういうことなのかもしれない。

koukokugyokai at 01:10|PermalinkComments(3)TrackBack(1)クリエイティブ系 
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2008年03月25日

もうひとつの検索

「(あなたの)好みの人はどんな人?」

合コン序盤戦でもよく聞く、定番の質問。
これに対して「自分が好きになった人」、と、禅問答のような回答も
見かけたりはするのだが、ほとんどの人が何らかの内容を即答してくる。
しかし次の問いはけっこう難しい。

「あなたを好んでいる人はどんな人?」


就職シーズン真っ盛りだ。
思えば、就職活動当時、自分が入りたい会社はなんとなくあっても、
自分を求めている会社がどこなのかはさっぱりわからなかった。
最近なら、高性能なジョブマッチングサービスなどがあったりするのだろうか。

たとえば、新商品のオリエンを受ける。想定ターゲットは20代女性。
まあ、そうなのかもしれない。ただ、本当かどうかはわからない。
わかるのは、開発陣はそういうつもりで作った、ということだけだ。
この商品は本当は誰に求められうるのだろうか?

あるいは、ある技術が、誰に必要とされているか。
破壊的なイノベーションも、ありがちな技術の組み合わせで起きたりする。
ある領域では常識的な技術や考え方を、別領域に応用すること。
そのとき、「技術」と「求められている場」を交配させたのは誰だろうか。
技術自体は、それが誰に求められているかに対して何かを語ってはいないはず。

サイトを、ブログを持っている人なら、ある種、もう一つの検索を楽しんでいる。
アクセス解析だ。「目的地」に立ち、どこから人々が来たのかを眺める。
見方によっては、トンネルの逆側から検索する行為とも言えるかもしれない。
自分がどんな人、あるいは誰に求められているかが、何となくわかるのは面白い。

「検索」のつながりが、完全に双方向になったとき。
そのとき何かが変わるんじゃないかと思う。でも、なかなか難しそうだ。
「私を好んでいる人はどんな人ですか?」
10年もしないうちに、逆向きの検索は実装されるのだろうか。

ところで、お見合いにおいては「お見合いおばちゃん」が重要なのだという。
幾多の縁を取り結んでいるお見合いおばちゃん、彼女に良い印象を与えること。
誠実な態度で対応することから、とりあえず紹介されたら(彼女のメンツのために)会ってみるまで。
そういうことが、彼女をして、いい人を紹介する(してもらう)ことにつながっていくのだと。

仕事や転職などでも、本で見るのは先輩などを通じた出会いだったりする。
自分のことをよく知っていて、適切なタイミングで助言をしてくれる人(チャンピオン)。
こういった人も、ある種の「お見合いおばちゃん」みたいなものだろう。
複雑な物事をつないでいく逆堀りの検索エンジンが、リアル世界には存在する。

最近の検索エンジンの進歩はすごい。曖昧な検索も精度高く返してくれる。
そのうち、「腹減った」と入れれば、出前がヒットするようになるだろう。
しかし、出前が誰に求められているか、意外と検索エンジンは返してくれない。
逆向きの、複雑な物事はまだ、「誰か」がつないでいる。
今日も、どこかに何かの「お見合いおばちゃん」がうろうろしているはずだ。

koukokugyokai at 01:34|PermalinkComments(4)TrackBack(0)マーケティング戦略系 
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2008年03月21日

意志決定の謎

意志決定には、謎があると思う。

国家の意思決定といえば、政治が思いつく。
政治は意志決定の連続であるが、私の目から見ると、
「いったいなんでそんなことになるのか?」「この人達はおかしいのか?」
そんな決定を見ることも珍しくない。どうなっているのか?
頭がおかしいのだろうか?そんなことはないだろう。

クライアントのところへいく。クライアントも意志決定をしている。
とんでもないオリエンペーパーを渡されることがある。
なにこれ?一ヶ月かけて、これって・・・何も決まってないのでは?
迅速に意志決定の検討をする・・って何も言っていないのでは?
クライアントは頭の弱い人なのか?そんなことはない。

意志決定には謎がある。外部から見ると、悪魔的な力が働いて、
どうみてもおかしい、変な意志決定が出力されているように見える。
おそらく、悪徳祈祷師がいるのだろう。
もしくは、古代中国に習い、亀の甲羅の割れ方で意志決定をしているのだろう。

広告屋は、メディアを売るが、厳密にはプランを売っている。
プランの中には、まあ、知識・ノウハウと呼んでも差し支えないものがある。
新しいことを提案すると、まず間違いなく聞かれることがある。
「他社事例ってありますか?」

広告の事例ならともかく、企業内部に関わることでの他社事例紹介は難しい。
他者の秘密を教えることにつながるからだ。だから、たいていはできない。
我が社にものすごいブランド力があれば、それで納得してもらえるのかもしれないが。

アップルの、スティーブ・ジョブズのプレゼンはすばらしい。
でも、もし自分の仕事を彼がやり、もしあのプレゼンスタイルを取ったら、
決まるものも決まらないだろう。
おそらくクライアントはこう言う:「これでは上申できません。」

少なくとも、私がいままでに出入りした数十の(大)企業においては、
意志決定が「揚げ足取りと、言い訳準備」によって回っている。
このフレームにはまらない提案は、受け入れられない。
少なくとも大企業相手の営業というのは、意志決定の謎を解く作業である。

GMail でなく閉鎖型の社内システムを使っても、事故が起きる確率は
大して変わらないし、顧客に迷惑をかける度合いも大して変わらない。しかし、事
故が起きたときに「これだけセキュリティに気を遣っていて事故ったんだから仕方
ないですよね」と言い訳ができれば、大企業自体が受けるダメージは大幅に低減で
きる。日本の大企業においてセキュリティという言葉は、だいたいそのような意味
で使われている。(大企業が GMail を使う言い訳−Rauru Blog

歴史で、黒船以降、日本の社会がガラッと変わったと学んだ。
日本人は変化を嫌うのに、変わるときは一気に変わるとも聞く。
そこには「意志決定の謎」が絡んでいる。

だって、黒船だもん、しょうがないんじゃない?
だって、あの○○社はやってますよ?
だって、となりの○○ちゃんの家でも買ってもらってるもん。
この認識が一定人数以上で共有されると、揚げ足取りは消え、
完璧な言い訳ができあがる。そうなれば、すべてが一気に変わる。

本当に良いものを提案したいとき、意志決定フレームにはまらなかったら?
難しいが、一つのアプローチを想定してみた。
まずは、小さい企業に安く売る。たいてい小企業ではオーナー相手に話をするので、
言い訳は不要なのだ。理屈で話して、そのオーナーが良いと思えば、やる。
これで、まずは事例が一つできた。ポイントは、最初は安く売ることだ。
その代わり、事例として紹介していいという約束を取り付ける。

次に、中規模企業に売りに行く。相手の財布に合わせて少し高くする。
もしあなたが清濁併せ飲む人間なら、ビジネス誌に編集記事を書いてもらうといい。
この「ビジネス誌で事例が紹介されたこと」が、後でじわじわと効いてくる。
その雑誌が発行されたら買い込んで、営業の際に配ればいい。
ラーメン屋の店頭に雑誌で紹介されたカラーコピーがついているのと同じだ。
BtoB系企業(とくにIT系)の新聞広告が、他社事例ばかりなのもこれと同じである。

最後に大企業だ。当然、社長どころか部長も出てこない。
別によい。いままでの事例やら雑誌やらをふんだんにつける。
お金は高く取る。いままでで安売りしてきたのなら、その分高く取る。
その権利はある。リスクを取らないのなら、その分お金はもらってよいだろう。
まだ世の中に価格リストができていないものなら、その価格はあなたが決めていい。

どうだろうか?
相手が大企業でも、トップに直接話ができるなら、ショートカットもできる。

個人的には、言い訳できたり、揚げ足を取られないということと、
そのプランが優れているということの間に、相関関係はないと思う。
本当は、良いものが、良いものとして決まるのがいい。だが今はまだうまくいかない。
ならば、なんとか意志決定の謎を逆手に取っていくしかないと思う。

koukokugyokai at 01:36|PermalinkComments(0)TrackBack(2)業界雑談系 
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2008年03月18日

排泄モデルと発酵モデル


うだうだしているうちに、最終更新から1ヶ月以上も経ってしまった。
忙しかったのもあるのだが、要は、面倒くさかったのである。
面倒くさい。長文を書きすぎなのかもしれない。

面倒くささについて、最近考えている。
私は、相当な面倒くさがりなのである。筆無精だし出不精である。
梅田望夫氏の著書のどこかで、怠惰な人はダメだというようなことが書いてあって、
激しく同意しつつも、非常に焦ったりしている。
今年は、なんとしても「面倒くささ」を打破したい。

そのためにうだうだと考えていたら、仮説第一弾ができた。
その仮説はこうだ。

「熟考すれば、よい判断ができるというのは(多くの場合)誤りだ」。
多くのものは、その場でとりあえずアウトプットしておけばよい。
ただし、これでは、直感が重要だというのと大差ない。

おそらく、排泄モデルと発酵モデルというものがある。
食べ物の例えにしてみたが、食べ物は、基本的には放っておくと腐る。
しかし、ものによっては、うまく腐らせると発酵して、おいしくなる。
そのあたりを応用して考えてみた。

やるべきことや考えておくべきことには、放っておくと腐るだけのものと、
うまく腐らせて発酵させるべきものがある。

思った以上に多くのものは、後で考えても同じである。
これは、排泄モデルで考えるべきで、さっさと出さないと健康に悪い。
排泄することによる快感も得られるので、とっとと排泄すべき。
来たメールに、さくっと返事を返すと、なんとまあ、排泄並みの快感である(笑)。

ところが物事には、すぐ排泄しない方がいい場合もある。
特に広告のアイデア開発などは、ウンウンうなった後、すぐに排泄せず、
寝かしてからアウトプットした方がよいことがある。あるいは、突然思いついたりする。
こういうのは排泄モデルではなく、発酵モデルで考える。
とりあえずウンウンうなって(発酵準備)、書き出して放っておく。

先週あたりから、プライベートや仕事のやるべきことを、「発酵もの」「排泄もの」に
分けて処理をすることにした。まずは、最初にどちらに該当するか判断する。
「発酵もの」は、最初に集中して短時間考え、一応の結論を書き、寝かせる。
「排泄もの」は、来た順番に片付けていく。早計かな、と思うが、たぶん寝かせたところで
結論は大して変わらないはずなのでどんどん排泄する。なかなか快感である。
それで、一段落ついたところで「発酵もの」の様子を見る。まだなら寝かしたまま。

このモデルが有用かどうかはまだ結論が出ないのだけれど、
どんどん排泄して、腸(脳)を空っぽにしておくことは大切なのだと感じる。
ある程度空っぽにしておかないと、新しい情報が入ってこないためである。
しかも貯めすぎると便秘状態になり、機嫌が悪くなり、本当は大して忙しくないのに
「忙しい、これは○○が悪いんだ!」と八つ当たりを始めてしまう。
いつも空っぽにしておけば、便通すっきり、さわやかである。

発酵に関していうと、考えた上で一応の結論を書いてしまっていても、
なんとなく自分では考えているもので、何か別の瞬間に「あ、あれか!」と思いついたりする。
それで、またその新しい考えを書き込んで、また寝かせる。
おそらく、ウンウンうなっている時間というのは、思考の準備であって思考ではない。
思考の本番は、そのあと、寝たり食べたりしているときに行われているのだろう。

というわけで、しばらくは排泄&発酵モデルで進めてみる。
・・・また長文になってしまった。

koukokugyokai at 01:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)完全な雑談 
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2008年02月08日

「生活者」とは何だったのか

マーケティングの基本フレームに「3C」というものがある。
Company(自社)、Competitor(競合)、Consumer(消費者)。
もし自分がそれを書き換えて良いならば、
ここにあとふたつの「C」を加えてみたい。

ひとつは、コミュニケーション(Communication)。
もうひとつは、コミットメント(Commitment)。
どちらも、買った後に、消費者が広げていく世界のことだ。

この二つのCを失いつつある典型的な例がある。
自動車におけるジャンル、「スポーツカー」。

スポーツカーが若者に人気だった頃、それはコミュニケーションを生んでいた。
それについて男子が語り合った。それはナンパの道具にもなった。
スポーツカーが若者に人気だった頃、それはコミットメントを生んでいた。
マニュアルシフトを操ること。エンジンルームを開ければ、その仕組みがわかること。

スポーツカーは進化した。しかしそこで起きたことは、消費者の疎外だった。
進化しすぎて、ブラックボックスが大きくなった。手軽にいじるなんて無理になった。
コアなユーザーを除いて、スポーツカーはコミュニケーションも生まなくなったし、
コミットメントを生み出すことも難しいものになった。

では、いまどんな車が売れているのだろう?ミニバンだ。
ミニバンには従来と違う形の、コミュニケーションとコミットメントがある。
それを通じて、家族がコミュニケーションをとる。友人同士で出かける。
本当に出かけなくてもよい。その可能性を残しておくことが重要だ。
そういえば、大ヒットしたミニバン「ステップワゴン」のコピーを思い出す。

「子供と一緒にどこ行こう?」

日産GT-Rが発売された。とんでもないスポーツカーらしい。
「すべての人に高性能を」。運転は実に簡単らしい。
さて、どんなコミュニケーシュンを生んでくれるのだろうか。
ユーザーは、どのようにコミットメントしていくのだろうか。

「ユーザーが多様化しました。大ヒットは無理でしょう。」
それは半分ウソに違いない。
多様化した商品に消費者が付き合わされているという側面が、もう半分だ。
もちろん、多様化だって悪いことばかりではない。
でも、コミュニケーションとコミットメント、それを忘れれば「ニッチ」になるだけだ。

重要なことはなんだろうか。
いったん、当たり前のことを考え直す必要がある。
消費は最終目的地ではなく、中間経由地だということ。
なのに「3C」には、買った後の話が全く出てこないのだ。

人はドリルが欲しいのではなく、穴が欲しい。間違いない。
しかしそれだけではない。その穴は、日曜大工というちょっとした趣味の
一部になりうるし、娘の喜ぶ顔を生むための装置でもある。
ドリルを買うという行為は、長い長い物語の、一部であるということだろう。

3C分析から生まれた「全自動ドリル」は、コミットメントとコミュニケーションを生むだろうか。
自分で悪戦苦闘しつつ、操作に習熟していく趣味の広がりはあるだろうか。
つまみをひねって手を添えるだけの全自動ドリルに、娘は感動するだろうか。

すぐれたマーケター、すぐれたUIデザイナー、すぐれたWebデザイナー。
結局のところ、彼らの視線は、「市場」だけでもなく「消費者」だけでもなく、
「人間」という本質に向かっている。全体で捉える視点で、より遠くに飛ぶこと。
「消費者」ではなく「生活者」と呼ぶことの本質は、そのあたりにあると思っている。

koukokugyokai at 03:54|PermalinkComments(1)TrackBack(4)業界雑談系 
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2008年02月05日

神様に競争を投げ返す

よくあるキャンペーンとして、「限定○○様!」というものがある。
説明として、よく言われるのは、限られたものに人間は弱いということ。

違う説明を考えた。それは「選択権ゲーム」。
商売においては、選択権ゲームがとても重要である。
つまるところ、取引において選択権を持っている方が勝つ、そういうゲームだ。

たとえば、合コンで、男4、女1だったらどうだろうか。
大学の男女比が、9:1だったら。
選択権を持っている方が有利になる。

企業対企業は、このゲームの典型的な舞台だ。
合い見積もり。競合プレゼン。相手に選択権がある。
こちらは大勢(競合他社を含む)、向こうは一人だ。
程度の差はあれど、競争に勝つために不利な条件をのんでいく。
ビジネスにおける選択権は、価格決定権に近い。場合によっては、値下げ合戦になる。

「いや、それなら結構です。私は帰ります」
それが言えたらどんなによいことか。
ぐっとこらえて、引きつった顔で「わかりました」と言う。
選択権ゲームの地獄は終わらない。

腹立たしい選択権ゲーム。ひっくり返す方法がないわけではない。
そのためにはルールを知らなくてはならない。
基本ルールは、「競争にさらされている方が負ける」というものだ。それだけ。
ここを起点にして、勝利の方法を考える。

ひとつめは、こちら側に発生してしまっている競争を止める方法だ。たとえば、降りる。
競争をやめる方法としては、談合もある。自発的に競争を無効にする。
一段偉い人に競争を無効にしてもらう手もある。いわゆる参入規制だ。
でも、これらは打ち手として現実的でない。そんなことができることはまれだ。

現実的には、オリジナルな、ニッチなマーケットに身を置いて差別化する方法がある。
この場にいるのは自分だけ。ならば、誰との競争にもならない。ポジショニングだ。
現実に取り得る手段としては、競争を回避する割と有効な手段だろう。
ただ、一人っきりの自分の所にお客さんは来るか。そのあたりは賭けだ。

自分に発生している競争を無効化するだけではない。
一人っきりのはずの、相手に競争を発生させるという手もありうる。
相手の「一人」を崩す作戦を考える。

実際のところ、別の状況においては、相手も競争状態にある。
今現在こそ相手が発注者だが、別のタイミングでは相手も受注者のことがある。
神様であるお客様だって、別のタイミングでは別の神様にひれ伏しているのだ。
もちろん、そのときの発注者は我々ではない。だから、あまり気づかない。
その競争を無理矢理、この場に持ってくるという手はないだろうか。

「○○人に支持されています」「○○%が支持しています」。
これは、遠回しに、相手に競争状態を投げ返す一言だ。
相手と同じ立場の、第三者の支持を入れて、仮想の競争状態を作り出す。
実はあなたたちは競争状態なんですよ、○○人(%)が支持しているんですよ。

「限定○○様!」冒頭に挙げたこの一言はより直接的だ。
相手を無理矢理限定してしまうことで、相手側に競争を発生させる。

いわゆる「デファクト・スタンダード」もこの原理で説明ができる。
Microsoft Office。顧客は競争にさらされている。
買わなくても結構です、でも競合は使ってますよ、あなたのお客さんも使ってますよ?
相手に競争を投げ返す。

強いブランドがある商品、強いブランドの企業。
スペックや価格ではない、それには変えられない価値を感じさせる。
その舞台には、競合がいない。文字通りオンリーワンだ。
こういう場合は、顧客に競争が起きる。

マーケティングはある種、自分の所に起きている競争を無効化し、
相手の所に積極的に競争を発生させる、選択権を減らす発想でできているといえる。
相手が唯我独尊、「俺は俺だもんね」な場合はなかなか難しい。
マーケティング上は、お客さんが周りを気にして、同調圧力で動くとやりやすい。
そのような構造が崩れはじめた昨今は、マーケティングが効かないとか言われる。

でも、BtoBな商売では、まだまだ有効だと思う。
嫌な一言をいう担当者から見れば、確かにこちらに選択権はない。
でも、よーく見てみる。その担当者は、部長を軸にして、別の担当者と競争状態にある。
そのあたり、うまく生かせないか。別の企業の担当者を競争に巻き込めないか。

「顧客志向」によるタダ働き、クレームによる疲弊。
顧客志向が悪いわけでもない。それは避けられない。お客様は神様だ。
楽してお金が儲かることは多くない。お金を稼ぐのは確かに大変だ。
ただし、お客様にも競争してもらおうじゃないか。神様は競争してはいけないか?

うまくいっている会社は、顧客の競争構造を利用している。
顧客のライバルは誰なのか。顧客の、さらに顧客から見た競争構造。
クライアントから帰る途中に、なんだかそんなことを考えてしまう。

koukokugyokai at 03:49|PermalinkComments(3)TrackBack(0)マーケティング戦略系 
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2008年02月04日

「いい質問」について考える

プレゼンや講演では、終わった後に質疑応答があったりする。
聞く側として参加したとき、質疑応答になると私は黙っていることが多い。
あまり質問が思いつかないためだが、なんだか所在ない気分になる。
聞くだけ聞いて、何も質問せず帰るのが、ちょっと申し訳ない。

思わずうなってしまうような、いい質問をする人がいる。
彼らはなぜ、いい質問ができるのだろうか。
いい質問ができる人は優秀、なイメージが自分の中にある。

いい質問はどうやって生み出せばいいのだろうか。
いい質問とはどういうものか、という分類はよく見かけるのだが、
実際どのように生み出せばいいのか、はよくわからなかった。

なのだが、最近、いい質問をするための方法がわかった気がする。
といっても特別な方法があるわけではなく、態度の問題だと感じた。
プレゼンや講演を聞きながら、その内容を頭の中で現実に適用したり、
「すると、こういう場合はどうだろうか?」と応用したりしてみるのだ。
そうすると行き詰まる部分がある。それをメモしておいて、質問するという感じ。

話を聞くときに、その話を理解することだけに意識を集中しない。
理解しながら、「だったら○○の場合はどうなるか」などと、自分の仕事や
関心領域にあてはめながら理解していくのがポイントであるようだ。
逆に理解することだけをしていると、基本的なミスのあるプレゼンでない限り、
「ふーむ、なるほど」という感想が出てくるだけで、質問は思いつかない。
ある種、目的志向の一種といえる。これをやると、聞いている間はアタマが忙しい。

文章を読むときも、同じことが言えるのだろう。
目の前にある文章を理解するだけでは時間がもったいない(かもしれない)。
理解をしつつ、現実に当てはまっているか考えたり、それをほかのものに応用したり
しながら読むことで、前向きな疑問が出て視点が広がるように思う。
たまに理解するだけで精一杯の難解な文章があるので、その際はお手上げだが。
と、こう書いてみると、文章を読む際には割とすでにやっていることのような気がする。

逆に、プレゼンをする側にしてみると、質問はとても注目すべきことだ。
プレゼンのわかりにくい部分を浮き彫りにしてくれるということに加えて、
飛んでくる質問は聞く側の「シミュレーション時のつまづきポイント」であるからだ。
聞く側がどのような場面を想定しているのか逆算すれば、ニーズがわかる。

プレゼンの時は話すのに精一杯で、終わると「鋭い質問が来ませんように・・・」と思うが、
質問すること・質問されることには多くの実りが潜んでいるのかもしれない。

koukokugyokai at 01:03|PermalinkComments(2)TrackBack(2)完全な雑談 
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2008年01月21日

サードプレイスと収益モデル

中学生か高校生の頃だっただろうか、内田有紀が出ていた「17歳」という
ドラマを見ていた記憶がある。あまりドラマを見ないクチだが、記憶に残っている。
何が残っているかというと、そこに出ていた彼らのたまり場。(P's DINERだったか)

行くと、誰かがいて、たまり場になっている。
特に何をするというわけではない。ただ知り合いがいる。
こういうものに、強烈にあこがれた。

私の実家の近くには、空き地があった。
古い工場の跡地で、よく遊んでいた。示し合わせて行くわけではない。
これはひとつの「たまり場」だ。

もう少し大きくなってからは、ゲームセンターがたまり場になっていた。
自分の実家のあたりでは、ヨーカドーなんかもたまり場としての機能を持つ。
大学の時は、自分の家(一人暮らし先)をそうしようとして、無理だった。
年を食ったら、病院が自分にとってのたまり場になるのだろうか。
もし自分が主婦なら、習い事に行くこともたまり場の機能を持つだろう。

スケールは異なるが、いわゆる「お茶の間」も同じ構造だ。
家族団らんの価値観を前提としたお茶の間と、そこにあるテレビ。
いわばそこが「家族のたまり場」となり、CMで収益を担保した。
テレビの媒体価値というのはこのあたりと深く結びついていた。

消えてしまうたまり場もある。
空き地などは、何もお金が落ちてこないので、立ち入り禁止にしたり、
駐車場になってしまう。そうなると、たまり場の機能は失われる。
ゲームセンターも最近は苦しそうだ。病院だって、たまり場になることを
想定しているわけではないので、難しい面があるだろう。
「お茶の間」が崩壊すると、テレビも苦しくなってくる。

立ち位置は異なるが、スターバックスは「たまり場」になることを目指した。
それを社会学的には「サードプレイス」と呼ぶようである。

そして、おいしいコーヒーだけではなく、バリスタのもてなし、そして居心地のいい空間など、すべてが揃っているのです。それが「サードプレイス」です。家庭でも職場でも学校でもない3番目の場所として、ゆっくりと自分らしく過ごすことができる、まさにオアシスのような空間。あなたにとってのサードプレイス、スターバックス コーヒーでの体験は、かけがえのない1日をより豊かなものにしてくれるはずです。(Starbucks-Our sprit)

スタバは「たまり場」になっているのだろうか。なんだか違う気もする。
ところで日本における代表的なサードプレイスはなんなのだろうか。
ちなみにイギリスはパブ、フランスはカフェ、ドイツはビアガーデンらしい。

もしかしたら現代日本のそれは「2ちゃんねる」かもしれない。
行けば、そこに誰かがいる。なんとなく、知っているような人もいる。
おなじみの反応が繰り返される。何となく時間を過ごすのによい場所。
繰り出されるネタを肴に漂う場所。
ほんとうは、「Second Life」もそうなりたかったのかもしれない。

さて、サードプレイスやらたまり場を考えるとなると、収益化がポイントになる。
リアル社会におけるサードプレイスはなかなか難しい。特に都市においては
ただ人がたまっているだけの場所を無料で提供する余裕はない。
だから、飲み物なりなんなりをかませて、お金を落としてもらう必要がある。
Webだって同じだ。

いまのところ、Webの収益というのはほとんど広告モデルかアフィリエイトになっている。
2ちゃんねるは素朴に広告モデルだし、ニコニコ動画などはアフィリエイトが絡んでいる。
スターバックスで言うところの、あの高いコーヒーにあたるものはなんなのか。
それは広告かもしれないし、そうでないかもしれない。

ニコニコ動画の場合は、映像の共同閲覧&ツッコミというシステムは
きわめてお茶の間的でありながら、アフィリエイトという収益モデルについては
ヨーカドーモデルとなっている。面白い組み合わせだ。とはいえ、苦戦している。

もしかしたら新しい収益化の方法は、ゲーセンや病院や、パブをヒントに
出てくるのかもしれない。

koukokugyokai at 03:39|PermalinkComments(3)TrackBack(4)メディア系 
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2008年01月16日

広告「系」に思う

1月11日に、「広告系ブロガー新年会」が催され、自分も参加した。
100名近い広告系ブロガーや関係者が集う、熱気漂う会だった。
この手のオフ会(?)に参加するのは初めてで、名刺を切らしたりと
ミスをしたりもしたが、読んでいるブログの方や、過去に仕事でご一緒した方と
偶然会ったりもして、とても有意義だった。

で、思ったのだけれど、おそらくこの会においてゆらいでいたことが
あるとするならば、それは広告「系」という言葉ではなかろうか。
これが何を示すのか、主催者側でも定義に苦労したのではないだろうか。

もっと遡って言うと、広告は誰のものなのだろうか。
あるいは、広告は誰が責任を持つべきものなのだろうか。

お金を出している人(=広告主)か?
それを受け取ってプランニングする人(=広告会社)か?
広告が掲出されるコンテンツのホルダー(=メディア)だろうか?
広告閲覧の対価として無償サービスを受ける人(=消費者)だろうか?

当日、自分の向かいに座った方は、広告主の方だったし、
ナナメ向かいの方は、メディアの方だった。
隣の方は湯川さん(時事通信)だし、
逆隣には、newsingで有名な上原さんが座っていた。
同時に、全員が広告を見る立場、消費者でもある。

みんな関係者だと思う。
エコシステムとしての広告「系」は、相当に大きい。

自分は何かというと、プランニングの立場だ。
広告主から、消費者まで、多くの利害関係者がそれぞれに
思うところがあって、それを同時に満たせるような仕組みを作るのが
プランニングだ。だから、広告はみんなのものであると言えるし、
誰かのためだけに偏ってもいけないと思う。

広告費を投下しても、売れた気がしない。広告効果って何なのか?
最近の広告はつまらないし、下品な広告が増えた気がする。見たくない。
コンテンツは見ていても、広告はスキップされている。これは窃盗だ。
広告出稿先メディアで企業への批判が書かれている。出稿できない。
いいコンテンツなのに、売れない(広告がつかない)。誰のせいだ。
なんだ、この記事。またポジショントークか。

広告に関係する誰かが、すごく怒っている。
どう思うかは別として、それに対して無責任ではいられないだろう。
いざというときに、「いや、俺関係ないし」とは言えない。
「そういうものですよ、それは」とか言っていいのは外野だけだ。

ネット関連に絡めて言うならば、「コントロールできないメディアで
どう広告活動を成立させていくか」は個人的なテーマであるものの、
「コントロールできないのはあたりまえですよ」とか無責任に言うような
人は、やっぱり広告に携わるのは難しいのではないかと思う。
少なくともそういう人に、広告費を預ける気にはならない。

広告はみんなの関係をうまく取り持つことで成り立っている。
消費者主権!と叫べばすべてのパズルが解けるわけでもない。

逆に、うまく広告という仕組みが回れば、企業も喜び、メディアも潤い、
消費者もコンテンツを楽しく見られる。
おまけに広告屋も楽しい「プランニング」を存分にできる。
だから、みんなにとってうまく広告が回ることが大切なのだと思う。

個々のキャンペーンのプランニングとはまた別に、
広告というものの責任を持つ一人として、
「広告そのもののプランニング」を考えるべきなのだと思った。

と、明後日の方向に話が飛んだ(しかも湿っぽい)けれども、
主催のmediologicさん、広告会議さん、コウコクデアソブさん、
どうもありがとうございました。またやりましょう。

koukokugyokai at 02:33|PermalinkComments(10)TrackBack(4)業界雑談系 
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2008年01月08日

個人的、08年の視点

2008年、あけましておめでとうございます。
昨年は後半からややエントリが減りましたが、今年は
再び元気よく書いていこうかと思っております。

さて、年頭のお約束・・ではないですが、2008年の業界を
どう生きていこうかなという風に考えました。

個人として、広告やネットメディアをどう見ていくか。
思うのは、やはり中期的には従来の「アタリマエ」が相対化
されていくのだろうな、ということです。

だからこそ今は、変に細かいところに入り込むだけではなく、
基本的なところの構造がどうなっているかを逐一確認しながら
土台を固めていきたいという気分です。

ネットも含めた広告活動のかんたんな図をこしらえました。
クリックで拡大しますのでご覧ください。


図







InputとOutoput、と書きました。
これは消費者(Consumer)の、という意味です。
ごく単純に言うと、従来はInputしかなかった。
Outputは不可視、もしくは直に購買行動だったわけです。

しかしネットはOutputというところを可視化した。
だから、InputとOutput、という視点からプランニングする視点が
きちんと成立するのではないかということがあります。

そのうえで、図にはA〜Dという記号が打ってあります。

Aは「何を言うか」。
従来からある広告プランニングの中心部です。
何も変わっていませんが、Outputがあるということを
念頭に置くのと置かないとでは、Inputのプランニングも
変わってきます。単純に言うと「詳しくはWebで」とやるとか。
あとは、ツッコミを入れやすいコンテンツにわざとするとか。

Bは「どう響かせるか」。
音に例えるならば、発せられたメッセージは
いろいろなメディアを経由し、反響しながら消費者の元に届きます。
それも設計のさいに考慮する。いわゆるクロスメディアとか言っている
部分になります。これも従来からあったといえばあった。
ただしネットをはじめとした新しいメディアももここには入ってくるでしょう。

Cです。これはいまアツイところではないでしょうか。
忘れられがちですが、Output活動には動機が必要です。
何かしらの情報Inputがなければ、普通はOutput活動は起きない。
消費ニーズが起きたときで良いのだ、というならば検索広告で終了。
しかし競合は上流で種をまいています。
もしかしたら、先に勝負は決まっているかも。
そういう視点がないなら、それは戦略とは呼べない。
消費者が行動する動機はどこにあるのか、どう刺激するか。
放っておけば検索し、自社サイトに来るわけではない。なぜ検索するのか?
このあたりがマスの連動を含めた論点になっていると思います。

そしてD。個人的には、ここが08年のテーマです。
消費者がOutput活動をするとき、仮に動機もしっかりあるときに、
そこでぶつかるのが、「どうOutputすればいいのか?」です。
書き忘れましたが、Outputは口コミや行動を含めた消費者のアクションです。

簡単なところで言うと、友達に広めたいときにワンクリックでできるか。
あるいは、企業の用意したゲームで遊ぶならそのルール。
ブログで紹介して欲しいならその際のルール(報酬とか・・・)。
バイラルビデオなら利用するプラットフォームや長さ、貼り付けやすさ、とか。

消費者を刺激して、動機を喚起して、さてあとは勝手に検索してくれ、
というところからもう一歩進むには、Dにあるような、消費者が泳ぎやすい
ルール作りが欠かせないと思います。それはある種のプラットフォーム。
そして重要なのは、単にそれが「おもしろい」で終わらないかどうか。
きちんと「ブランドを生かした」ルールの中で、みんなが泳いでくれるかどうか。
彼ら個々人がそれぞれ歩いた足跡が、「ブランドストーリー」となる。
それが理想です。

バイラルだね、おもしろいね、でもブランドとどう関係あるの?
ブログだね、新しいね、でもそれってペイドパブと何が違うの?
続きはWebだね、人たくさん来たね、で売れたの?
口コミ広告だね、すごい勢いだね、でも炎上しちゃったけど。

消費者に情報詰め込んで煽って、それで終わりではやはりダメ。
きちんとブランドを損なわないように行動してもらえるような、歩きやすい道を
用意しておかなければいけないと思います。

そしてそのときに「右へ歩け」「こっちへ来い」はNG。
歩きやすいように、横断歩道を用意したり、エスカレーターを整備したり。
そして、そこを消費者が「自分の意志で」歩いたときに、きちんとブランドを
体験して、理解して、いつか我々のところに帰ってきてくれること。
そういう難しいルール作りを、すでにあるものを利用しながら、作っていく。
Outputのメディアプランニングです。

・・・とまあ、そんなこんなで、今年もよろしくお願いいたします。

koukokugyokai at 01:24|PermalinkComments(0)TrackBack(2)マーケティング戦略系 
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2007年12月22日

距離感という価値軸

又聞きだが、先日おもしろい話を聞いた。「リアル」に関してだ。
かつて、主に「リアル」は、「バーチャル」の対義語として使われていた。
ところが最近は「バーチャル」の対義語は主に「フィジカル」となり、両方に対して
「リアルである」ということがいえるらしい。

だから、ゲームでもケータイ小説であっても、見た人の主観的判断として
「リアル」という言葉を使うことはおかしいことではないのだそうだ。
辞書的な意味合いでいっても、リアルには「事実」と「真実」の両方があるので、
かつては「事実」の意味が強かったものが「真実」への変化をしたのかもしれない。

少し考えを進めてみる。
かつての「リアル」は「事実」の意味が強い。これは客観的な指標であるともいえる。
対して最近の「リアル」が「真実」なのだとすると、主観的な価値判断となってくる。
これを前提にすると、なぜこのようなことが起きたのだろうか。

粗っぽく議論をとばしてしまうが、この構造には既視感がある。「かわいい」だ。
かつて、「かわいい」の対義語は「醜い」「老いている」あたりではなかっただろうか。
議論はあるだろうが、この二つはある程度、客観的に論じることができる。
じゃあ今はどうかといえば、(主に「女子高生的かわいい」でいうと、)対象が醜かろうが
老いていようが、「かわいい」という表現がされている。これも主観的価値判断となった。
いまの「醜い」「老いている」の対義語は、普通に「美しい」「若い」だ。

さらに飛ばそう。このあたりからデタラメと罵られそうだ。「萌え」である。
すでに対義語フレームで捉えるのも難しい感じだが、「萌え」も定義しにくい言葉だ。
いろいろなものに萌えることができてしまう。ある種の主観的価値判断である。

さて、「リアル」「かわいい」「萌え」あたりまできたので、もう少し串刺しを試みる。
私がこの3つに共通のものを見るのは、それが「対象物内の要素バランスに対する魅力」と
いえるのではないか、と思ったからである。

フィジカルだろうとバーチャルだろうと、対象内には複数の要素があり、それがバランスをとる。
たとえばケータイ小説なら文脈というものがあり、A・B・C・・・と出来事が記述される。
そのそれぞれの記述要素のバランスが共感できる関係を持っていると、魅力を感じる。
それを「リアル」という言葉で表しているのではないだろうか。

同様に「(女子高生的な)かわいい」。たとえばゴスロリをかわいいと評するときに、それは
ゴスロリを構成するいくつかのパーツのバランス(ミスマッチも含め)が絶妙にとれていると
いうことが「かわいい」という言葉を導いているのではないだろうか。

「萌え」に関しては、すでにいくつかの萌え要素とよばれるものがある。
ニーハイソックスなどは、絶対領域などという言葉があるとおり、素肌とソックスのバランスが
ものを言っている。ソックスそのものもさることながら、バランスが決め手なのだろう。
ツンデレもツンとデレのバランスそのものだ。猫耳や眼鏡っ子は、もう少し社会全体の
女子とのバランス感覚で捉えるべきものなのかもしれない。
いずれにせよ、要素だけでなく、そのバランス感覚に魅力を感じているように思う。

で、バランス感覚だ。でも、バランス感覚なんていつだって重要なことだ。
いまあえて、バランス感覚が重要視されているなんてことは言えるのだろうか。

ここでまた一つ思い出す言葉がある。「引く」だ。
「ドン引きした」なんていう、あの「引く」である。

「引く」行為は、対象との心理的距離感を表している。
なぜ引くのかを考えた場合、予想もしない変な行動を相手がとったとき、が
大きいだろう。そういう意味ではさっきの「対象内の要素バランス説」で表現できる。
だがここで注目したいのは、対象と自分との距離感(引く)を用いて、対象のことを
主観的に表しているということだ。

つまり、「対象内要素の距離感に対して、こちらからの距離感を表明」している。
私は、対象内の距離感で価値判断をし、対象に対して距離感で価値表明することに
何らかの意味があると思う。本質は距離感という価値軸の勃興であると。
そして、この背景に「距離が測りづらくなった世界」があるのではないかと見る。

ネットでも、多様化でもなんでもいいのだが、時間的にも空間的にも、身の丈を
超えた範囲で情報をやりとりすることが増えてきた。異物との出会いも増えうる。
そうなれば、自分と対象との距離を測ることが重要な事柄になってくる。
われわれは、以前に比べて「距離を測ること」が増え、その際に使う語彙を
増やし始めている・・・そんな風には、いえないだろうか。

そして、その際のフレームとして、われわれは今までになく
「対象を内部要素の距離感で測り、その結果を対象と自分との距離感で表明する」
ような距離感ベースの価値診断を行うようになった、それが「リアル」であり、
「かわいい」であり、「萌え」であり、「引く」である、というのはどうだろう。

そんな時代においては、対象内の距離を測り間違えると、対象から距離をとられてしまうだろう。
つまり、コミュニティ内の距離(空気)を読めなければ、距離をとられる(引かれる)。
そういう第六感的な物差しを身体化することが、現代のスキルなのかもしれない。


koukokugyokai at 05:35|PermalinkComments(3)TrackBack(0)完全な雑談 
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お笑いというイデオロギー?

お笑い芸人と呼ばれる人を、テレビでずいぶん多く見るようになったと思う。
調べると、いまはお笑い第五世代ということで、単にブームを
繰り返しているだけなのかもしれない。こういう話は厳密な比較が難しい。
ただ、最近はジャニーズ系芸能人も笑わせるスキルに熱心な印象がある。

お笑い芸人というのは、企画的には非常に使いやすいものだろう。
政治的文脈には属さず、特定の価値観を代表するようなものではない印象がある。
場合により老若男女すべてに通じる、マスメディアの必殺アイテムになりうるだろう。
養成所のようなものも整備され、芸人が安定供給されてくる状況にもある。

もちろん例外も存在する。ダウンタウンの松っちゃん、爆笑問題の太田、
あるいはビートたけしといった人たちは、お笑いというジャンルでありながらも
風刺の効いた笑いを起こすことで、その行為自体になんらかの価値観が含まれている。
実際、本人もはっきりとした主張の持ち主であることが多い。
個人的にはこれが本流かと思うが、本流と呼ばれるほど多いかというと、そうでもない。

好きな言葉ではないが、「多様化」といわれる状況が生まれるなかでは、
人々が(好みの分かれる)価値観でないところでつながるツールとして「お笑い」が
採用されていることが多いのかもしれないな、と思う。

毎年のように「今年の流行ネタ」が生まれ、小学生が真似をし、忘れ去られていく。
個々の芸人にとっては死活問題だが、全体としてみれば、今では少なくなった
社会の共通言語としてコミュニケーションの器となっているのかもしれない。

さらに気になる様相としてあるのは、断定派ピン芸人とでもいう人たちだ。
ピン(一人)で登場し、状況に対してなんらかの断定をし、笑いをとっていく。
永井秀和、波田陽区ときて、直近だと小島よしお、だろうか。

二人以上の芸人(コンビ)は、たいていの場合二人で何らかのやりとりをし、
その間柄で生まれた文脈に対してずらしをかけることで笑いをとる。
この手のピン芸人の場合は、たとえていうなら世の中とやりとりをしている。
世相に対してツッコミをいれていると表現してもよいのかもしれない。

もとよりお笑いには世相が反映されることが多いものだとは思うが、
この手のピン系断定派芸人のひとたちは、なんらかのイデオロギーの表現体として
世の中に受け入れられているのではないかと思う。ある意味、国民の代表だ。
だがその一方、それはネタである以上、笑い声となって闇に消えていく。
そして多くの場合、彼ら個人もいつの間にかマスメディアの舞台から姿を消す。

お笑いには、物事を笑いのフレームに入れることでうやむやにしてしまう機能もあるだろう。
それはそれでひとつのイデオロギーというふうにも言えるのかもしれない。
ネタ化というイデオロギー。そういう表現もできる。

コミュニケーションの器となり、笑いフレームでなんとなく時間を過ごさせてくれるという
お笑い芸人たちの一機能は、マスコミュニケーションの最後の砦であり、世の中にある
一つの気分を表しているともいえるのかもしれない。

絶滅していくといわれるお茶の間の再生装置として、お茶を濁す人たち。
それを受容するわれわれが濁しに濁したお茶の沈殿物が、どこかでグロテスクな
形になって現れる・・・そんなことになったら嫌だ、とは思うのだが。

koukokugyokai at 03:50|PermalinkComments(1)TrackBack(0)完全な雑談 
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2007年12月13日

ブランドの裏には、知性ある消費者がいる

先日、ある問いをめぐって、ちょっとした盛り上がりがあった。
「私と仕事、どっちが大切なの?」にどう返すか。

最悪の答えは、黙って抱擁したり、話をそらすことだという。
次にダメなのは、「仕事」と即答すること。(やってしまいそうだ)
「そういう問題ではない」は賢い答えらしいが、それでもだめなようだ。
では「もちろんお前(あなた)だよ」はどうか。まだイマイチらしい。

ある女性が出した解は、「そんなこと言わせてごめんね+抱擁」らしい。
もちろん異論はあるだろうが、なるほど、と私は思った。
そこには、メッセージそのものではなく、それを発する姿勢への目線がある。

われわれはコミュニケーションをとる際に、メッセージそのものとともに、
そのメッセージが発せられた文脈、発信者が別の機会や状況において
どのようなメッセージを出しているのか、といった背後の情報を加味して
相手に対する総合的な判断を行う。人間には、それだけの知性がある。

いわゆる「メッセージ」を直接には発していないもの、つまり商品や企業体でも同じだ。
商品というのは、企業が無数の判断を重ねて作り上げたもの。
その背後には判断があり、判断を生み出した姿勢がある。
消費者は商品を見ながらも、背後にある姿勢について無意識の判断をしている。

Googleはブランド力があると何かの調査で見たが、Googleが広告などを通じて
何かのメッセージを発する機会を見たことはそれほどない。
かといって、公的なGoogleの理念を見たことがある人も多くないだろう。
それでもブランドイメージらしきものがあるのは、Googleのインタフェースや、その
アルゴリズムを通して、人々がGoogleの姿勢を読み取っているからである。

我々は目の前のモノ・コトだけを見ているのではない。
モノ・コトを通して、それを生み出したヒトを判断している。
口先だけのコミュニケーションが失敗するのは、その口先を通して、人々が
発信者のことを判断する知性を持つ存在だということを忘れているからなのだろう。

だから、ブランドにおいて重要なのはマークや模様だけではない。
極端にいえば、それは「人々が感じ取った姿勢の総体」を固定する記号でしかない。
感じ取れる姿勢と、それを紐づける記号性さえあれば、なんだってブランドになりうる。
たとえば亀山工場。

吉野家の件も何がよくないって、新聞に“処分”っていうキーワードが踊ること、だと思う。「テラ豚丼」自体がブランドの失墜というわけではなく、「そんなことでバイトを処分する会社」というラベリングがされてしまうことのほうが危険で、その点でPRリスクを想定しなかったのだろうか。(mediologic
ブランドということに関して、これは非常に示唆のある視点だと思う。

悪ふざけするような人を雇ってしまうという「姿勢」が透けて見えれば、
ある程度ブランドには悪影響があるかもしれない。
しかしそれ以上にブランドに影響するのは、より強く姿勢が透けて見えるところ、
つまり、やらかしてしまった従業員への対応、である。

人々は、企業がらみの事件に注目しているが、その対応にも注目する。
事件そのものは、不可抗力や事故の可能性もある。
しかし、事件への「対応」は不可抗力や事故ではありえない。
経営トップ層が関与する「事故対応」は、ブランドを判断するのに
格好の材料になる。加えてスピードが要求されるから、小手先の先延ばしも
難しい。事故対応は、ブランド認識における格好のショーケースだ。
ピンチの際に、その人の本質がよく見えるのと同じように。

ブランド論はいろいろなところで語られるし、口コミブランディングなどといって
結局のところ似非口コミでコントロールをかけるなどといった浅薄な議論もある。
しかしそうではなく、そういう諸々の企業活動を消費者が読み取った結果がブランドだ。
似非口コミをやれば、「似非口コミをやるような会社」というブランドができる。
消費者の知性をなめてかかる企業が、ブランドを存続させるのは難しい。
そこには「そんなこと言わせてごめんね+抱擁」という読みができるほどの、
知性ある消費者がいるのだから。

koukokugyokai at 03:12|PermalinkComments(5)TrackBack(1)マーケティング戦略系 
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2007年11月27日

遠さが近さのために、近さが遠さのために


実家に帰省したりしてひさしぶりに東京を歩いたら、人混みにとまどった。
とくにとまどうのは、渋谷の交差点である。あまりに、人、人、人。
どうやったらあんなに人がたくさんいて、ぶつからずに歩けるのか。
自分で歩いておきながら、まさしく奇跡であると思う。

帰省し、クルマを運転してまた思った。こんどは高速道路。
常識を大きく外れたスピードで、鉄の塊が飛び交っている。
なぜ、私はカーブにつっこんだり、ほかのクルマと接触しないのだろうか。

ところで、何人かで打ち合わせをしていて、混乱してしまうときがある。
みんなが、いろいろなことを言う。それぞれの意見を解釈して、どうしたら
うまくいくものか・・・そもそも理解するので精一杯になることがある。
手慣れた先輩が、かんたんに議論をまとめていくのを見て、驚愕する。

結局、遠くを見ると、なぜだか自然に歩くことができる。
高速道路の運転のコツは、遠くを見ること。同じだ。
遠くの一点を見ることで、なぜだか手前の百の事象は収束していく。
目的さえしっかりしていれば、個々の発言のポイントも、自然と見えてくる。

近くのものをうまく「処理」するためには、遠くのものを見ている必要がある。
遠くのものを見ていると、なぜ