2009年11月14日

ナントカ感の正体

仕事をしていると、たまに謎ワードを聞くことがある。「登場感が欲しい」とか。これはかなり謎だ。わかるようで、わからない。登場感、何となくわかるような気がするが、じゃあそれを作るためには何が必要なのかと考え始めると苦しい。これに限らず、ナントカ感、とつくような言葉がある。スピード感、緊張感、劣等感・・・「感」がつくことによって、どういう変化があるのだろう。

女性が言う、もてる男の条件に「清潔感」というものがある。これは清潔とは違う。単に風呂に入り、歯磨きをしてもだめだ。清潔感にはおそらく二つ条件がある。ひとつは、「手入れをしていることがうかがえる感じ」。無精ヒゲとか、衣服のしわ等がマイナス要因になる。無造作ヘアというのは、ぼさぼさ髪と紙一重だけれど、手入れをしている感じがうかがえればOKだ。もう一つは、「健康であることの表示」。適度な日焼けや、吹き出物などがない肌というのがポイントになる。これらは正直、清潔さとはほとんど関係がない。でも、清潔感とは深い関係がある。

あるウェブサイトを見ているとき、感心したことがある。スピードを表現しているのだけれど、サイトが非常に軽い。大画面の映像で、スピーディーな表現をやろうとすると、たいてい重たいサイトになってしまう。しかし、このサイトではスピード感を表現していた。よく見ると、表示はコマ送りでしかないのだが、一つ一つのコマは静止画ではなく、動いている残像のコマなのだ。コマ送りでしかなくとも、残像が入っていることによって、人間はスピード感を感じることができる。スピードではない、スピード感の表現。

もっと抽象的に、自由と自由感の違いというものもありそうだ。自由というのは、何にも妨げられないで主体的に振る舞えることだと言える。では、何もない画用紙に、好きに自分を表現する、というのは自由だろうか。客観的には自由かもしれないが、頼りどころがない。子供だったら、塗り絵の枠線が書かれている方が自由だろう。Twitterは、好きにつぶやけと言う。そのとき、140字の文字制限がある。好きにつぶやけというのは不安を感じさせるけれど、140字の限定は自由感をもたらす。あるサイズの限定は自由ではないかもしれないけれど、自由感を生む。

バックパックを背負って海外に出かけていたころ、マレーシアのなんだかわからない街に泊まったことがある。長距離鉄道に乗っていて、たまたまそこで降りただけ。観光地でもなく、日本人も見あたらない。そんな街に、ほとんど誰も泊まっていない宿があった。一泊、百円くらいだったその宿には、窓にガラスはなく、シャワーも水しかでない。じゅうたんもなく、布らしきものはベッドの上にしかない。備品と呼べるものは灰皿くらいで、この灰皿だって何かの食品の缶詰が置いてあるだけで、ほかには豆電球が部屋に一つ。そんな宿だったが、気持ちは非常に自由だった。こんな状況で感じる自由は、自由というより自由感だろう。

「感」がつくとき、その概念は人間のカタチになっている。わかるようでわからないこの「ナントカ感」を把握することが、表現やコミュニケーションにおけるコツなのかもしれない。

koukokugyokai at 23:27|PermalinkComments(3)TrackBack(0)

2009年10月04日

一方ロシアが鉛筆を使うには

ちょっと好きなジョークがある。
アメリカのNASAは、宇宙飛行士を最初に宇宙に送り込んだとき、無重力状態ではボールペンが書けないことを発見した。
これではボールペンを持って行っても役に立たない。
NASAの科学者たちはこの問題に立ち向かうべく、10年の歳月と120億ドルの開発費をかけて研究を重ねた。
その結果ついに、無重力でも上下逆にしても水の中でも氷点下でも摂氏300度でも、どんな状況下でもどんな表面にでも書けるボールペンを開発した!!
一方ロシアは鉛筆を使った。
実話ではないらしいが、なにか、重要なことが含まれているような気がする。

トヨタだったか、彼らは「なぜ?」を5回繰り返すという。徹底的に考えて、カイゼンを進めていく。この徹底した態度は重要だ。しかしこれとはまた異なる、デザイナーの考え方が好きだ。彼らは、「なぜ?」から入っていって、最後は「もし〜だったら」で出てくる。

冒頭のジョークでいうと、無重力状態でボールペンが書けないというところで「なぜ?」がはじまる。このまま「なぜ?」を繰り返すと、インクが無重力では機能しない、というところへ行き、そこからインクの液体としての特性がどうのこうの、という方面に解決を求めていくのだろう。でも、「なぜ?」を繰り返すと、袋小路に入っていくことがある。どこかで、「もし」を使わないといけない。「もし、ペンでなくてもよかったとしたら」。

コロンブスの卵も、似たところがある。あの話は、周りの人が「そんなことだったら俺にだってできたよ」という反応に対する「最初にやることが重要なんだよ」という教訓のようだが、おそらく別の教訓がある。つまり、卵を割って立てることが重要なのではなくて、卵を割ってもいいという前提をつくりだせるかどうか、が重要なのだと。「もし、卵を割っても良かったとしたら」。

仕事で、客先の偉い人と対面することがある。偉い人物はたいていおもしろい。彼らのおもしろさは、世界に対する仮定にある。自分が思いもつかなかった前提で世界を見ている。実際に彼らの口から出てくるのは、その前提に立った上での世界に対する感想なのだけれど、おもしろい前提がそこから透けて見えてくる。彼らのすごさは、前提のすごさだ。言い換えると、「もし」のすごさだ。

アインシュタインのこの言葉が好きだ。「問題をつくりだした時と同じ考え方では、その問題を解決することはできない。」ここでいう「考え方」というのは、前提となる世界観、「もし」のことだと思う。もし、卵を割ってもいいのだとしたら、もし、リンゴは落ちているのではなくて引っ張られているのだとしたら。もし、宇宙空間で使うのがボールペンでなくてもいいとしたら。

もし本当に画期的なアイデアだったら、背景となる知識・経験が他人とちがったものになっているはずなので、しゃべっても絶対に理解してもらえないから大丈夫。
自分の考えたアイデアを内緒にしたがるひと - はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記
仮説思考が重要だ、ということがよく言われる。仮説を持つことで、無駄な作業が減るし、考えがシャープになる。しかしそれだけではなく、「なぜ」だけでは袋小路に入っていくし、個別最適な解決になってしまうことを防ぐ「もし」の重要さもあるはずだ。強力な「もし」は、汎用性があるし、コピーされにくい。すぐれた商品やサービスの背景には理論があるし、その理論の背景には「もし」という名前の世界観がある。真にコピーすべきは、そこなのだろう。

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2009年10月01日

牛型の情報収集

牛には4つの胃がある。食べたものを胃に送って、また口に戻して噛んで、それを何度か繰り返して最終的に消化する(反芻する)ようだ。なぜそんなことをするのか気になったが、食べ物をたべる時間がない中で、消化の悪い草をなんとかして栄養にしなければいけなかったから、らしい。敵がいないうちにムシャムシャ草を食べ、その後で警戒しながら反芻する、というイメージだろうか。勝手な話だけど、これはネット以降の情報収集スタイルに近いのではないかと思う。

インターネット以降は、利用できうる情報量が圧倒的に増えた。しかし持ち時間そのものが増えたわけではないので、情報はたくさんあるのに時間は足りないということがよくおきる。しかも、情報源もさまざま、単なる個人だったりすることも多いので、信用していいものかどうか、あるいは自分と関係のある情報かどうかもわからなかったりする。どうやって役に立てればよいのだろう。

方法はいろいろある。まずは従来からある方法で、よいとわかっている草を食べる。つまり、信用できる人を見つけて、その人からの情報を信頼して食べる。権威付けをするという意味では、みんなが食べている草を食べるというのも同じ考え方だ。

あとは、胃の性能を上げる。情報を仕分けして整理して、なるべく早く消化できるようにする。高性能なツールを使う。あるいは、自分の頭を良くして、素早く深く理解できるようにする。これは、なかなか難しい。

そして最後に牛のアプローチ、反芻である。なんどもなんども食べる。一見、効率が悪い。時間が余計にかかっているようにさえ見える。なぜ反芻する必要があるのか。

理由は明快で、1番目と2番目のアプローチは、視野が狭くなる可能性があるからだ。自分の欲しい情報や興味のある情報に最適化すればするほど、情報源が狭くなる。よくわからないけれど実は意味のあることだったり、いますぐにはわからないけれど自分にとって重要かもしれない情報というものが、漏れてしまう可能性がある。あるいは、全く分野は異なる情報でも、自分の興味範囲に応用できることがあるかもしれない。こういうものは、草に例えていうなら消化が悪い。しかし、幅広い情報を手に入れられる時代だし、せっかくなので生かしたい。そこで消化の悪い草にも効く、牛型の情報収集が必要になる。

牛型の情報収集における基本は、とにかく食べるということである。こいつは食べ物かもしれない、と思ったらとにかく食べる。つまり、少しでも気になったら、とにかくクリップする。明らかに賛成・反対だったり、もうわかりきっていることというのは確実な食べ物なので、牛型の情報収集からは外れる。よくわからないけど、何かひっかかりがある・・・くらいがちょうどいい。とにかく貯める。

この引っかかり、必ず理由がある。その理由が判明するのは、明日かもしれないし、1年後かもしれない。少なくとも私の経験では、なんだかわからないけどちょっと気になるものというのは、自分にとって重要なものだ。最初の時点でその理由がわかっている必要はない。理解する必要もない。そこで理解できてしまうなら、あえて貯めておくべき情報ではなかったということだ。

最初の消化においては、ちょっとした感想とか、なぜ気になったのかをわかる範囲で書いておくだけ。最初の消化となる。その後、1週間なりして、もう一度見る。ポイントは、自分の感想だけを見ること。最初の感想だけを見れば、何を見て書いたものかは十分に思い出せるし、重要なのは、なぜ自分がこれを気にしたのか、ということを理解することだから。このときに、感想をたくさん通して見ていくと、そのとき考えていたこと全体の輪郭が見えることがある。

ある程度消化できたら、考えたことをある程度まとまった形にして書き残しておくのがいい。ブログに書いてみるのが一番いいと思う。この文章もそうやって書いている。ブログに書いた時点である程度の消化はできているけれど、それに対する反応が返ってくると、さらに消化が進んだりもする。この時点で、自分だけでなく他人の胃を使って反芻をはじめることになる。

最後に、自分の書いた文章(上記でいうとブログ)を一気に通読する。最後の反芻になる。意味がないようにも思えるが、やってみると新鮮だ。一気にたくさん読むのが重要で、そこから見えてくる全体の輪郭というのが、最終的な消化だ。意外と深いことを考えている、自分の大きな問題意識みたいなものがわかると、気分がいい。ここでも内容それ自体ではなく、なぜ自分はこんなことを書いているのか考えることが重要だ。

数が多く、それぞれが細かい情報をうまく生かしていくためには、都度都度ではなく大きく理解することが重要だと思う。そのとき助けになるのが、自分の「なんとなく気になる、ひっかかる」という意識だ。そこには必ず理由があるし、それこそが自分がまだ把握できていない問題意識だ。人生訓ではないが、答えは自分の中にあることが多い。ネットを鏡のように利用して自分の考えを深めるために、牛型の情報収集が役に立てばいいなあと思う。

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2009年07月30日

おもしろ広告は機能しているか?

興味深い実験をみた。
ある実験で、ヘッドフォンの架空のモニター調査を行い、集まった人たちに音の良し悪しや欲しいと思うかなどを用紙に記入してもらいました。しばらくしてから、同じ参加者にインタビューします。2本のペンを見せて、どちらが好きかを聞くのですが、実は、片方のペンは最初のアンケートに使ったもので、もう片方は別の種類のペンなのです。すると、ヘッドフォンに好意的な評価を書いた人はそのときのペンを選び、ネガティブな感想を書いた人は別のペンを選ぶという具合に、見事に二分されました。ヘッドフォンがよかったので、ペンまで気に入ってしまった、というわけで、逆の場合も理屈は同じです。こういう風に好き・嫌いが波及することを「汎化」といいます。(13号:やる気は脳ではなく体や環境から生まれる

おもしろい広告を作る人がいる。それを見て、「面白ければいいわけじゃない、売れないとダメだ」というのは正論だ。見る人を楽しませるボランティアをやっているわけではない。いままで自分は、おもしろい広告のほうが記憶には残りやすいという機能はあるかもなあ・・・くらいの認識だった。

冒頭の調査結果から、こういう推測はできるだろうか。「おもしろい広告を見たときに訴求されている商品については、好感を持ちやすい」。いままでも、おもしろ系の広告は好感度の数値も高い傾向がある・・レベルのデータはあったけれど、そこで同時に訴求されている商品やサービスについてどう効果があるかというのは不明瞭だったように思う。

一部のバナー広告や屋外広告、テレビでのCMもそうだけれど、クリックや商品購買のような行動で測定しにくいものに関する指標はずっと問題になっている。仮に「おもしろ度」みたいなものが計測されて、それが意味をもたらすということがわかるのならば、機能を合理的に訴求できない場合(話が細かくなるとか、購買直近でない人へのコミュニケーションとか)の広告開発についてなんらかのヒントになるのかもしれない。

機能の善し悪しが本当に問題になる場合って実はそんなに多くない(というかそれさえ主観的)と思うけれども、なんだか抱き合わせ商法みたいにもみえるのが悩みどころ、かな。

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2009年07月29日

課金の心理面を考える

買い物に関する調査をどこかで見たことがある。買い物におけるストレスというもの。そこで自分が驚いたのは、レジがストレスになっているということだった。もちろん、レジに並ぶのは面倒だし、待つのでストレスだ。しかしストレスはそこにだけあるのではない。「お金を払う」という行為がストレスなのだ。持ち金が減るからストレスなのだという話ではない。

お金を払うことの意味が、だんだん重くなっていると思う。というのも、選択やら検討はどんどん自由度が高まる分だけ、それを一気に収束させる「支払い」の持つ意味が大きくなるからだ。多くの商品が「選び得て」、大きな流行がなくなり「個人の自由に判断できる」ようになれば、それだけそれを「終わりにする」ことの意味が大きくなる。選択肢が多くなるほど、人は判断を保留させがちだという話も聞いたことがある。それは、決めることの意味が大きくなってしまうからだ。大きなダムの出水口には、大きな負荷がかかる。

支払いというのは踏み絵のようなところがある。なんとなく、というわけにはいかない。支払ったら、そこで後戻りはできないし、意識するしないに関わらず、「私はこれを選択しました!」という意思表明になってしまうからだ。そこに他人の目がなくても、自分の心の目がある。大げさではなく、そういうところがある。

なんとなく支払える仕組みがあるということは強い。ケータイの支払いは、実に「なんとなく」行われる。リアルなお金を目にしないということはもちろん、請求も携帯キャリアを通して行われ、通話料金にまぎれてよく見えない。さらに若い人などだと、親が通話料金を支払っていたりして、もはや完全に見えないところにある。でもPCではそうはいかない。ならば、どういう方向性があるか。

基本として「Webでお金を払って楽しむことはかっこいい、先進的だ」という認識を、限定的にでも作っていくことが大切だと思う。ネットの先進ユーザーとされる人々は、技術を駆使して無料で手に入れることを良しとする場合が多い。この考え方は、課金の考え方と真っ向から対立する。いまはどうだか知らないが、ネットでもっとも検索されるワードはかつて「無料」だった。無料が良し、無料ほど偉いとされる文化と、どう折り合いをつけるか考えること無しには、ネットの課金サービスは難しいのではないか。

人は、自分の誇りを傷つけるような消費をしたがらない。ネットを自由自在に使いこなし、無料で色々手に入れることを誇りと感じているような人は、少額課金であってもそれは誇りを傷つけることになる。そうなればできるだけ意識せず、その踏み絵を「なんとなく」行えるのがいいのかもしれないが、ここは技術的な問題が大きく絡む。何らかの方法で、お金を支払うということと誇りというものを接続させることが重要になってくる。このへんを前提にいくつか。

まずベタだけれど、「時間の短縮」はどうだろう。「無料でも手に入れられるけれども、時間を短縮するためにお金を払う」な感じ。誇りと関連づけるならば、「私は忙しいからお金を払う→忙しい私ってエライ」である。インターネットのコンセプトのひとつは「無限」だけれど、現実の人間は無限の時間など持っていない。このあたりをテコに考える方法。この場合、膨大な時間を持っている人は無視することにはなる。

もう1つは、「返金サービス」である。最初にお金は払うけれど、満足できなかったら返金します、そういうものだ。リアルな買い物では、これは一定の効果をあげたりする。この取り組みがどういう意味を持つかというと、つまり購買を最後の瞬間にしない、後戻りができる途中の段階に持って行ってしまうということだ。ただ、リアルな買い物は返品そのものが面倒だけれど、Webサービスは返品しようもないし、面倒な感じもあまりない。いずれにせよ、支払いの瞬間に訪れる「踏み絵」の重さをうやむやにして、少しでも軽くしようというというアプローチ。

3つめは、時間差。いまの先進ユーザーが「無料=先進=カッコイイ」という考え方をずっと持ち続けると考えるならば、それを逆手に取る。コンテンツ公開の段階ではお金を取らない。速く見つけた人は無料。しかし1000人目からは段階的に有料になる。ある一定以上の人気を集めたコンテンツは、自動的に有料になる仕組み。人気のあるものを手軽に見たければお金を払えばいいだけ。技術的な問題は絡むけれど、心理的には現状のままで結構いけるのが強い。好きなアイデアだけれど、これでうまくいっているという話は聞かない。

無料ユーザーと有料ユーザーの絡みを利用するという方向ではさらに、ユーザー間のパトロン制というのもあるのかもしれない。有料ユーザーの可視化はいまでも行われているけれど、彼らが支えているものを「全体」ではなくて「個人」にしてしまうという方向。有料ユーザーは、たとえば月300円で2人を養うことができる。面白い投稿をしたり、年齢は若いけど勢いのあるユーザーを2人養えば、彼らは無料で参加できる、みたいな形だ。そうなると無料ユーザーはそれなりに意味のある行動や他者貢献をしたいというモチベーションが働くかもしれないし、有料ユーザーを通してシステムの維持も考えられるという算段だ。

かつて宗教ではお金持ちがたくさん寄付をしていたし(今もか)、小集団での持ちつ持たれつなお金の貸し借りもあったりした。単にサービス提供の対価として個別課金というスタイルにこだわらず色々考えれば、お金の回り方もなにか思いつくんじゃないかなと思ってたりするのだけれど、無責任だろうか。

koukokugyokai at 01:24|PermalinkComments(5)TrackBack(0)