2006年08月10日
世界最強の媒体?
優れたデザイナーは、よく「デザインは引き算である」という。
単に無駄な部分を削った、ミニマルなデザインだと捉えがちだが、
この言葉の真意は別のところにあるのではないかと思う。
よく効く広告というものがある。効くための条件はいろいろあるが、
ここでは過去の名作「そうだ、京都、行こう。」を取り上げてみる。
(ちなみにこの広告を制作したのは、元・電通、現・シンガタの佐々木宏氏である。
広告表現は、過去のものを含めて、JR東海ミュージアムで見られる。)
なぜこれは名作なのだろうか。よく「京都に行きたくなる!」といわれる。
この広告の目的は、(基本的には)京都にいってもらうことだから、成功だろう。
ではなぜ、コピー「そうだ、京都、行こう。」は名作なのか。
単に無駄な部分を削った、ミニマルなデザインだと捉えがちだが、
この言葉の真意は別のところにあるのではないかと思う。
よく効く広告というものがある。効くための条件はいろいろあるが、
ここでは過去の名作「そうだ、京都、行こう。」を取り上げてみる。
(ちなみにこの広告を制作したのは、元・電通、現・シンガタの佐々木宏氏である。
広告表現は、過去のものを含めて、JR東海ミュージアムで見られる。)
なぜこれは名作なのだろうか。よく「京都に行きたくなる!」といわれる。
この広告の目的は、(基本的には)京都にいってもらうことだから、成功だろう。
ではなぜ、コピー「そうだ、京都、行こう。」は名作なのか。
それは、このコピーを見ると、頭の中にある京都への気持ちが
よみがえってくるからである。それで、行きたくなる。
毎回ビジュアルとして、京都のきれいな写真が出ているが、これは
気持ちをよみがえらせるための補助的な役割といえるだろう。
で、何が言いたいかというと、おそらくこの広告で重要なのは、
「何を(表現として)見せるか」ではなくて、
「(何かを見せた結果)頭の中に広がる風景(や感情)は何か」ということを軸に設計されている、
ということなんだということだ。
つまりポスターに写っている京都を見せたいのではなく、
頭の中に広がる京都(のイメージや感情)を最大化させることを考えている。
そういう意味では、言葉や写真はスイッチでしかなくて、(真の意味での)表現は
見た人のアタマの中に広がる風景である。
だから、広告表現を考えるときに、絵やコピーで「どう表現するか」を
考えてはダメなのだ。絵やコピーといったスイッチで、
頭の中にどういう風景が広がるかということに気を使う必要がある。
つまりこの場合の(真の)媒体は、見た人の想像力、ということになる。
京都の風景が頭の中に広がりさえすれば、コピーや写真(=スイッチ)に
京都の要素がなくても、まったくかまわないのである。
(しかし経験上99%の広告主は、「もっと京都を語れ!」と怒る。)
媒体は物理的に限られている。しかし想像力は無限だ。
だったら、想像力を思い切り広げられるスイッチを用意すればいい。
その際、スイッチは情報過多ではおそらくだめだ。
想像力というのは、限定された情報から、文字通り「想像」するものだから。
そのために削りに削った言葉が、「そうだ、京都、行こう」なんだろう。
これを「そういえば、昔に京都に行った。あのときは楽しかった。また行こうかなあ」では
情報量が多くなって、かえって想像が広がらない。
文字と文字の隙間の欠けた部分が、想像力を生むのだろう。
そう考えれば、なぜiPodの広告が写真でなく「影絵」なのか、わかるだろう。
デザインが引き算でなければいけないのは、引いた量よりもずっとずっと大きい、
「想像力」を生むためではないだろうか。
この「想像力」こそが、おそらく世界最強の媒体だと思う。
よみがえってくるからである。それで、行きたくなる。
毎回ビジュアルとして、京都のきれいな写真が出ているが、これは
気持ちをよみがえらせるための補助的な役割といえるだろう。
で、何が言いたいかというと、おそらくこの広告で重要なのは、
「何を(表現として)見せるか」ではなくて、
「(何かを見せた結果)頭の中に広がる風景(や感情)は何か」ということを軸に設計されている、
ということなんだということだ。
つまりポスターに写っている京都を見せたいのではなく、
頭の中に広がる京都(のイメージや感情)を最大化させることを考えている。
そういう意味では、言葉や写真はスイッチでしかなくて、(真の意味での)表現は
見た人のアタマの中に広がる風景である。
だから、広告表現を考えるときに、絵やコピーで「どう表現するか」を
考えてはダメなのだ。絵やコピーといったスイッチで、
頭の中にどういう風景が広がるかということに気を使う必要がある。
つまりこの場合の(真の)媒体は、見た人の想像力、ということになる。
京都の風景が頭の中に広がりさえすれば、コピーや写真(=スイッチ)に
京都の要素がなくても、まったくかまわないのである。
(しかし経験上99%の広告主は、「もっと京都を語れ!」と怒る。)
媒体は物理的に限られている。しかし想像力は無限だ。
だったら、想像力を思い切り広げられるスイッチを用意すればいい。
その際、スイッチは情報過多ではおそらくだめだ。
想像力というのは、限定された情報から、文字通り「想像」するものだから。
そのために削りに削った言葉が、「そうだ、京都、行こう」なんだろう。
これを「そういえば、昔に京都に行った。あのときは楽しかった。また行こうかなあ」では
情報量が多くなって、かえって想像が広がらない。
文字と文字の隙間の欠けた部分が、想像力を生むのだろう。
そう考えれば、なぜiPodの広告が写真でなく「影絵」なのか、わかるだろう。
デザインが引き算でなければいけないのは、引いた量よりもずっとずっと大きい、
「想像力」を生むためではないだろうか。
この「想像力」こそが、おそらく世界最強の媒体だと思う。
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この記事へのコメント
1. Posted by chidori_wacha
2006年08月10日 15:03
「そうだ、京都へ行こう。」ではなく
「そうだ、京都、行こう。」だったことが
自分フィルタを通した想像力に影響しているように感じます。
「へ」が入ると、観光案内の京都のイメージを他者(JR東海)から勧められた想像になり、一気に押し付けがましく感じてビジュアルがくすんでしまう。
「そうだ、京都、行こう。」だったことが
自分フィルタを通した想像力に影響しているように感じます。
「へ」が入ると、観光案内の京都のイメージを他者(JR東海)から勧められた想像になり、一気に押し付けがましく感じてビジュアルがくすんでしまう。
2. Posted by 著者
2006年08月12日 06:32
そうですね。そう考えると、言葉はかなりデリケートですね。
今思ったのですが、この方法は、日本の伝統である俳句あたりに非常に近いのかもしれません。
「古池や〜」みたいな。
今思ったのですが、この方法は、日本の伝統である俳句あたりに非常に近いのかもしれません。
「古池や〜」みたいな。

