2007年01月29日
うはー夢がひろがりんぐ?
作っても作っても売れなくて、需要創造型マーケティングが叫ばれて久しいけれど、
現実にはいろいろ作ってみても売れなかったりして、やはり難しい。
iPodとかWiiとかDSとかが売れるのはなんでだろう。
あと、いまだに売れ続けてるブランド品も。
その辺を考えてみた。
要はお客さんが「うはー夢がひろがりんぐ」と思ってくれるかどうかなんだろうけれども、
その夢とちゃんと商品があっているかどうか、コミュニケーションがあっているかどうか
判断するのがこれまた難しい。
iPodとかiPhoneとか目指すのはいいけれども、単に新しいだけで
みんなの夢がひろがりんぐにならない例はたくさんある。どうすればいいのやら。
で、「うはー夢が(略」がどういう構造なのかな、とちょっと考えてみたのだけれど、
どうやら2つに分解できそうなのだ。(もっとあるかも)
(1)私にふさわしい。うはー(略
(2)生活が変わるかも。うはー(略
「私にふさわしい」のミソは二つほどあって、ここでいう「私」がちゃんと
消費者であること。メーカー側の論理じゃ売れないでしょう。
それともっと大切なこととして、「ぴったり」と「ふさわしい」は違う。
誰しも自己イメージって増幅させがちなので、「ふさわしい」といったときには
必ずしも現状とはあってない。そこのところがキモになりそう。
「ベンツは私にふさわしい」と思って買っている人がいても、傍目から見れば
別にふさわしくないなんてことは多いわけだし。
もうひとつの「生活が変わるかも」はもうちょっと単純な話だけど、
変わる先が明確に見えないと、気持ちが盛り上がらない。
単に商品の話をされても、「それをあれこれ使うと、生活変わって・・・」とは
誰も考えてくれないだろう。そんな想像を自力で膨らませるのは面倒なことだし。
それと、「生活変わるかも」は自己満足というよりは他者との関係性が重要っぽくて、
ダイエットサプリとかミニバンを見るとわかるように、「(異性に)もてるかも」とか
「子供にいいところを見せられるかも」ということが重要な気がする。
iPodとか典型的な「生活変わるかも」系なのかな。
みんなの心にある「ふさわしい私」を自己満足的に満たしつつ、
他者評価としての「生活変わるかも」な感じをうまく膨らませてあげると
「うはー夢がひろがりんぐ」になると思うのだけど、とりあえず思いつきで。
現実にはいろいろ作ってみても売れなかったりして、やはり難しい。
iPodとかWiiとかDSとかが売れるのはなんでだろう。
あと、いまだに売れ続けてるブランド品も。
その辺を考えてみた。
要はお客さんが「うはー夢がひろがりんぐ」と思ってくれるかどうかなんだろうけれども、
その夢とちゃんと商品があっているかどうか、コミュニケーションがあっているかどうか
判断するのがこれまた難しい。
iPodとかiPhoneとか目指すのはいいけれども、単に新しいだけで
みんなの夢がひろがりんぐにならない例はたくさんある。どうすればいいのやら。
で、「うはー夢が(略」がどういう構造なのかな、とちょっと考えてみたのだけれど、
どうやら2つに分解できそうなのだ。(もっとあるかも)
(1)私にふさわしい。うはー(略
(2)生活が変わるかも。うはー(略
「私にふさわしい」のミソは二つほどあって、ここでいう「私」がちゃんと
消費者であること。メーカー側の論理じゃ売れないでしょう。
それともっと大切なこととして、「ぴったり」と「ふさわしい」は違う。
誰しも自己イメージって増幅させがちなので、「ふさわしい」といったときには
必ずしも現状とはあってない。そこのところがキモになりそう。
「ベンツは私にふさわしい」と思って買っている人がいても、傍目から見れば
別にふさわしくないなんてことは多いわけだし。
もうひとつの「生活が変わるかも」はもうちょっと単純な話だけど、
変わる先が明確に見えないと、気持ちが盛り上がらない。
単に商品の話をされても、「それをあれこれ使うと、生活変わって・・・」とは
誰も考えてくれないだろう。そんな想像を自力で膨らませるのは面倒なことだし。
それと、「生活変わるかも」は自己満足というよりは他者との関係性が重要っぽくて、
ダイエットサプリとかミニバンを見るとわかるように、「(異性に)もてるかも」とか
「子供にいいところを見せられるかも」ということが重要な気がする。
iPodとか典型的な「生活変わるかも」系なのかな。
みんなの心にある「ふさわしい私」を自己満足的に満たしつつ、
他者評価としての「生活変わるかも」な感じをうまく膨らませてあげると
「うはー夢がひろがりんぐ」になると思うのだけど、とりあえず思いつきで。

