2007年05月06日
コミュニケーションの本質を垣間見た
ブログ不在時に色々見聞きして、感じたことをつらつらと。(てか、長い)
男同士で話していると、女性の話し方に対する愚痴が出ることがある。
(彼女らは)長々と、愚痴っぽくしゃべる。時系列に沿い長々と、ときおり脱線を繰り返す。
ズバっと解決案を示そうものなら、かえって嫌われる。
それが君のお望みじゃないのかい?なんてこったい。
会社に、「コミュニケーションルーム」というのがある。
事実、最近のオフィスデザインの流行は、コミュニケーションの誘発だ。
自然と異なる部署の人が出会うように、動線を工夫したり、イームズのソファを置いたり。
おもちゃを置いているところだってある。カラフルな模様がかわいらしい。
でも、うちの会社の「コミュニケーションルーム」は、今日もガラガラだ。
先日、合コンを久しぶりにやった。
合コンというと必ず問題になるのが、最初の気まずさだ。
まあ、お酒がまわってくれば、そんなことはどうでもよくなるけれど。
そういえば合コンは出会いのためにやっているといっても過言ではないのに、
出会いたいオーラを出しすぎていると、忌み嫌われる。
出会い系サイトもそうだ。出会うためにあるくせに、出会い系サイトでの出会いは
不純なものとされてしまう。どういう感覚なんだろう、これは。
コミュニケーションって不思議なものだ。交流を持ちたいくせに、
それを目的として何かをしようとすると、うまくいかなかったり、
うまくいきすぎても忌み嫌われたりする。
井戸端会議という言葉がある。単に「会議」ではないというところが、ミソだと思う。
そこには、かならず井戸が必要なんだろう。
コミュニケーション部屋じゃコミュニケーションは生まれない。
でも、タバコ部屋なら、コミュニケーションは生まれる。
取締役同士が膝詰めあって、お茶でも飲みながら話をするのは接待にならない。
そこには、ゴルフというゲームが必要だし、キャバクラ嬢が必要なんだろう。
ちょっと、コミュニケーションという言葉に立ち戻ってみる。
Communication。目に付くのは、接頭辞のCom。「ともに」「一緒に」。
Webが出てきてからのコミュニケーションは、一方通行から双方向へ。
でも、まだ足りないのかもしれない。「ともに」「一緒に」何をするのか?
そこに人が二人いればいいのか?井戸はいらないのだろうか?
たぶん、コミュニケーションには、「肴(さかな)」が必要なんだろう。
それは井戸のようなもので、それを含めて、コミュニケーションのはずだ。
そしてこの「肴」は、その都度、名前や様態を変える。
天才扇動家ヒトラーの「肴」は、ユダヤ人だった。
小泉純一郎の「肴」は、郵政民営化だった。
マスコミの「肴」は、大衆の先入観(よくいえば常識、悪く言うと偏見)。
昔の会社の「肴」は、社員旅行にタバコ部屋。定期的な飲み会もそうかもしれない。
部活やバイトやサークルだって、立派な「肴」に違いない。
肴はいろんな形がありうる。それは、どんなコミュニケーションを求めるかによる。
原始的には、一緒の時間をすごすための話題・場所・コト。
もっと結束力を持たせたいなら「共通の敵」。そういうものが嫌なら「共通の課題」。
もっとゆるくていいならば、タバコやご飯のような「共通の行為」。
相手の性格を把握する目的も含めるなら、相手の性格が浮き彫りになるものとして、
囲碁や将棋、ゴルフなどのゲームがあるだろうと思う。
広告代理店では、企業と消費者の間にはどんな肴が作れるか考える。
それが代理店における企画行為の多くを占めている。
企画が「肴」となり、企業と消費者、あるいは消費者どうしがうまく会話を
はじめてくれますように・・・そう願って企画を投下する。
みすず学苑の広告がなぜあんなに変なのか?
トヨタはみんな知っているのに、なぜTVCMをやめないのか?
マスコミはなぜ偏向報道をやめないのか?
SNSがなんだか気持ち悪く思えるのはなんでだろうか?(←個人的意見)
彼女の長い話をぶった切って解決するのは果たして正しいのか?
「肴」をキーワードに、もう一度、考えてみるべき問題だと思う。
双方向で、欲しい人に、欲しいタイミングで、個別に情報伝達する。
優良・高効率コミュニケーション。それは、ホントにホントなのか。
そこに何らかの関係は作れるのか。これで十分なのか。
そこに「肴」は必要ないのだろうか?
思うに、BlogやSNS、最近ならTwitterも立派に「肴」の要素を
持っていると思う。でも同時に、まだ何か足りない気もする。
あんまりGoogleは「肴」に興味がなさそうだし、これは今後に期待。
男同士で話していると、女性の話し方に対する愚痴が出ることがある。
(彼女らは)長々と、愚痴っぽくしゃべる。時系列に沿い長々と、ときおり脱線を繰り返す。
ズバっと解決案を示そうものなら、かえって嫌われる。
それが君のお望みじゃないのかい?なんてこったい。
会社に、「コミュニケーションルーム」というのがある。
事実、最近のオフィスデザインの流行は、コミュニケーションの誘発だ。
自然と異なる部署の人が出会うように、動線を工夫したり、イームズのソファを置いたり。
おもちゃを置いているところだってある。カラフルな模様がかわいらしい。
でも、うちの会社の「コミュニケーションルーム」は、今日もガラガラだ。
先日、合コンを久しぶりにやった。
合コンというと必ず問題になるのが、最初の気まずさだ。
まあ、お酒がまわってくれば、そんなことはどうでもよくなるけれど。
そういえば合コンは出会いのためにやっているといっても過言ではないのに、
出会いたいオーラを出しすぎていると、忌み嫌われる。
出会い系サイトもそうだ。出会うためにあるくせに、出会い系サイトでの出会いは
不純なものとされてしまう。どういう感覚なんだろう、これは。
コミュニケーションって不思議なものだ。交流を持ちたいくせに、
それを目的として何かをしようとすると、うまくいかなかったり、
うまくいきすぎても忌み嫌われたりする。
井戸端会議という言葉がある。単に「会議」ではないというところが、ミソだと思う。
そこには、かならず井戸が必要なんだろう。
コミュニケーション部屋じゃコミュニケーションは生まれない。
でも、タバコ部屋なら、コミュニケーションは生まれる。
取締役同士が膝詰めあって、お茶でも飲みながら話をするのは接待にならない。
そこには、ゴルフというゲームが必要だし、キャバクラ嬢が必要なんだろう。
ちょっと、コミュニケーションという言葉に立ち戻ってみる。
Communication。目に付くのは、接頭辞のCom。「ともに」「一緒に」。
Webが出てきてからのコミュニケーションは、一方通行から双方向へ。
でも、まだ足りないのかもしれない。「ともに」「一緒に」何をするのか?
そこに人が二人いればいいのか?井戸はいらないのだろうか?
たぶん、コミュニケーションには、「肴(さかな)」が必要なんだろう。
それは井戸のようなもので、それを含めて、コミュニケーションのはずだ。
そしてこの「肴」は、その都度、名前や様態を変える。
天才扇動家ヒトラーの「肴」は、ユダヤ人だった。
小泉純一郎の「肴」は、郵政民営化だった。
マスコミの「肴」は、大衆の先入観(よくいえば常識、悪く言うと偏見)。
昔の会社の「肴」は、社員旅行にタバコ部屋。定期的な飲み会もそうかもしれない。
部活やバイトやサークルだって、立派な「肴」に違いない。
肴はいろんな形がありうる。それは、どんなコミュニケーションを求めるかによる。
原始的には、一緒の時間をすごすための話題・場所・コト。
もっと結束力を持たせたいなら「共通の敵」。そういうものが嫌なら「共通の課題」。
もっとゆるくていいならば、タバコやご飯のような「共通の行為」。
相手の性格を把握する目的も含めるなら、相手の性格が浮き彫りになるものとして、
囲碁や将棋、ゴルフなどのゲームがあるだろうと思う。
広告代理店では、企業と消費者の間にはどんな肴が作れるか考える。
それが代理店における企画行為の多くを占めている。
企画が「肴」となり、企業と消費者、あるいは消費者どうしがうまく会話を
はじめてくれますように・・・そう願って企画を投下する。
みすず学苑の広告がなぜあんなに変なのか?
トヨタはみんな知っているのに、なぜTVCMをやめないのか?
マスコミはなぜ偏向報道をやめないのか?
SNSがなんだか気持ち悪く思えるのはなんでだろうか?(←個人的意見)
彼女の長い話をぶった切って解決するのは果たして正しいのか?
「肴」をキーワードに、もう一度、考えてみるべき問題だと思う。
双方向で、欲しい人に、欲しいタイミングで、個別に情報伝達する。
優良・高効率コミュニケーション。それは、ホントにホントなのか。
そこに何らかの関係は作れるのか。これで十分なのか。
そこに「肴」は必要ないのだろうか?
思うに、BlogやSNS、最近ならTwitterも立派に「肴」の要素を
持っていると思う。でも同時に、まだ何か足りない気もする。
あんまりGoogleは「肴」に興味がなさそうだし、これは今後に期待。
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1. 日本人のコミュニケーションには「肴」が必要 [ smashmedia ] 2007年05月06日 11:23
すごくいい話。ぜひ読んだらいいと思います。 コミュニケーションの本質を垣間見...
2. 話の肴をまいて歩く [ @ parallel minds ] 2007年05月08日 11:03
広告β:コミュニケーションの本質を垣間見た 思うに、BlogやSNS、最近なら...
3. コミュニケーションに必要な肴=タグ? [ 前向きストラテジー ] 2007年05月08日 19:22
広告β:コミュニケーションの本質を垣間見た いつも読んでいる広告βさんの「コミュニケーションには肴が必要だ」というエントリー。素晴らしい。その通りかもしれない。 たぶん、コミュニケーションには、「肴(...
この記事へのコメント
1. Posted by コミュニケーションの奥義
2007年05月07日 03:25
ついでにコミュニケーションをせっかくするなら、その人の「自己重要感」「自己肯定感」を満たしてあげることも大事ですよね。人間にとって「認められたい」というのは、最も根源的な欲求なので。
---
デール・カーネギー「人を動かす」
「自分の長所、欲求を忘れて、他人の長所を考えようではないか。そうすれば、お世辞などは全く無用になる。ウソでない心からの賞賛を与えよう。シュワッブのように、“心から賞賛し、惜しみなく賞辞を与え”よう。相手は、それを、心の奥深くしまい込んで、終生忘れないだろう−与えた本人が忘れても、受けた相手は、いつまでも忘れないでいつくしむだろう」
「やさしい誉め言葉は、夜明けの星の奏でる音楽のように、いつまでも記憶に残り、心の糧となるものなのだ」
「人間の持つ最も根強い衝動は、“重要人物たらんとする欲求”だ」
---
デール・カーネギー「人を動かす」
「自分の長所、欲求を忘れて、他人の長所を考えようではないか。そうすれば、お世辞などは全く無用になる。ウソでない心からの賞賛を与えよう。シュワッブのように、“心から賞賛し、惜しみなく賞辞を与え”よう。相手は、それを、心の奥深くしまい込んで、終生忘れないだろう−与えた本人が忘れても、受けた相手は、いつまでも忘れないでいつくしむだろう」
「やさしい誉め言葉は、夜明けの星の奏でる音楽のように、いつまでも記憶に残り、心の糧となるものなのだ」
「人間の持つ最も根強い衝動は、“重要人物たらんとする欲求”だ」
2. Posted by コミュニケーションの奥義
2007年05月07日 03:26
「成功の秘訣は“人の悪口を決して言わず、長所をほめること”」
「死ぬまで他人に恨まれたい方は、人を辛辣に批評してさえおればよろしい。その批評が当たっておればおるほど、効果はてきめんだ」
「人を非難するのは、ちょうど天にむかってつばをするようなもので、必ず我が身にかえって来る。人の過ちを正したり人をやっつけたりすると、結局、相手は逆にこちらをうらんでくる」
「およそ人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するという事を、良く心得ておかねばならない」
「死ぬまで他人に恨まれたい方は、人を辛辣に批評してさえおればよろしい。その批評が当たっておればおるほど、効果はてきめんだ」
「人を非難するのは、ちょうど天にむかってつばをするようなもので、必ず我が身にかえって来る。人の過ちを正したり人をやっつけたりすると、結局、相手は逆にこちらをうらんでくる」
「およそ人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するという事を、良く心得ておかねばならない」
3. Posted by joshua
2007年05月08日 10:55
なるほどって思いました。ネット関連コンテンツが何か不完全に感じていたのですが、それがなんなのかヒントをもらえた気がします。次にステップアップする道筋がちょっと見えました。
4. Posted by oshio
2009年06月24日 16:34
肴。
とすると女性は、肴をつついてることが好きだということですね。肴によって集っている相手がどうだとか、肴が向かう方向だとか、解決法だとか、そんなことはどうだっていい。
肴を囲んでいる状態が好きだ、というわけで。【集う】ことが重んじられるというわけか。なるほど。。。
とすると女性は、肴をつついてることが好きだということですね。肴によって集っている相手がどうだとか、肴が向かう方向だとか、解決法だとか、そんなことはどうだっていい。
肴を囲んでいる状態が好きだ、というわけで。【集う】ことが重んじられるというわけか。なるほど。。。

