2007年05月08日

常識の作法、ブログ

HPの未来2012年PCコンセプトが出ていた。形容詞が「スリーク」とある。
つるつる、ピカピカしたデザイン。iPodの進化形みたいに見える。
つるつるピカピカしたスリークなデザインは、なぜ未来的に見えるのだろう。
手元を確認しなくても使えるダイヤル式インターフェースは便利だけど、
未来的発想から言うとデコボコしているのでだめなんだろうか。

デザインのことを思うとき、いつも思い出すことがある。
子供のころに読んだ何かに出ていた、未来都市のことだ。
白くて丸くて、木みたいに上部が膨らんだ形状の住宅。
タイヤのない、浮かんだ自動車。タッチすれば認証されて開くドア。

いつになったらそういう未来が本当に来るのだろうか?
でも同時に、そういう未来である必要はないともいえる。
私が見た未来は、1980年代当時の想像力なわけだから。

自動車では、空気抵抗の関連なのか、長いことニューモデルは
「より流線型で、より丸く」という方向性が続いていた気がする。
その一方で、ハマーGクラスといった、流線型どころではないデザインも人気がある。
最近は、ミニやチンクエチェントがリバイバルデザインとして発表れた。
アメ車でも、デザイン的なリバイバルが盛んなようだ。
何かこのあたり、関連があるのかないのか?わからない。

日本はロボット王国らしく、ロボット技術は進んでいるらしい。
いろんなロボットがあるようだが、独特なのはヒト型ロボットを作ることだという。
どこかで読んだのは、ドラえもんやガンダムの影響が大きいという理由。
でもロボットが人間の模倣である必要はあるんだろうか?
動物は2本(4本)足であるくけれど、人間は車輪を発明したわけで。

いろいろ考えていると、「常識」というものにつきあたる。

常識は、かつて「とりあえず」であった歴史といえる。数学の公式は典型例だ。
常識が生まれた時の技術や環境では、それが最善だったと。
しかし時間が経つにつれ、その結果だけが残る。
結果だけを受け継いでいるわれわれは、いつのまにかそれを
「とりあえず」としてではなくて、「確固たる定説」と受け止めてしまう。

こういうことを考えだすと、イノベーションのことを考えずにはいられない。
イノベーションでは、洞察的な発見が行われることが多い。
そしてその発見は、ときに常識をくつがえしている。
どうやって常識を覆したのだろうか。

常識を意識して、それをいったん忘れればいいはずだが、
ひとはモノを意識的に忘れることはできない。
ここらへんに人間個人の限界を感じる。

逐一「常識」について疑い、考え直してみる習慣をつけたとしても
それでは何かとけちをつける、仕事の遅い奴になってしまう。
なんでもかんでも「なぜ」「なぜ」という、聞き分けのない子供みたいだ。
ゼロベース思考は有名だが、それが出来ないのは理由がある。

だからこそ、忘れている、というか何も知らない、
異分野のエキスパートや若者がドライバーとなり、イノベーションは
起こるのだ・・・と「メディチ・インパクト」や「パラダイムの魔力」という本に書いてある。
でもそういう組織操作って意外と難度が高くはないか。

知り合いが教師をしていて、教育方法を変えたという。
子供に授業をさせるというものだ。(もちろん、いつもじゃないけど)
これはひとつのヒントではないかと思う。
ヒトに教えるとなれば、アタリマエのこと(常識)に思いをはせ、
それがそうである理由を考える必要がある。それは80年代の「とりあえず」で
あったのではないかと。

実際、スリークデザインに疑問を持ったのは、母親にそれを説明する
機会があったからだ。それで、「なんでそうである必要があるんだろう?」と思った。

ブログを書くということは、不特定多数のヒトに見られうるということだ。
ならば、自分が知っている・取り組んでいることをブログに書くことは、
子供が授業をするような、常識(かつての「とりあえず」)に想いを馳せる
手軽ないい機会になるんじゃないかと思う。

わかるヒトだけわかるようにかかれた、行間のタップリある
ブログが私は大好きだ。しかし、多くのヒトに納得させるべく、
かつての「とりあえず」に眼を向ける、そういうブログの書き方に可能性を見出したい。

koukokugyokai at 02:54 │Comments(0)TrackBack(0)

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