2007年08月13日
リッチメディアとリッチ体験
リッチメディアの行方が若干気になる。
何が気になるかというと、リッチメディアの主語がなにかということであって、
リッチにならないといけないのは表現側でなく、ユーザー側であると思う。
言い換えると、リッチメディアでなくリッチ体験を目指そうということになる。
広告に限って言うならば、表現のリッチさと体験としてのリッチさは比例していかない。
ケースにもよるのだが、多くの場合、どこかで反比例が始まる。
そしてその「どこか」は、思ったよりもずっと手前だったりする。
なぜかというと、広告の情報量は本来、発信および到達情報量で測るのではなくて、
受信者の頭の中に広がった情報量になるのからだ。つまり、想像や妄想を含む。
それで、大切になるのはむしろ「想像や妄想」のほうなのであって、その理由は
間違いなく主語がユーザーだからである。自分で行った妄想は信じやすいということだ。
(そのへん、「そうだ、京都、行こう」を例に過去に考えたことがある。)
なのだが、一部のゲーム業界で過去に起きたような表現リッチ競争が始まって
製作側が疲弊し、結果も芳しくない・・・みたいなことが起きないだろうかと心配してしまう。
リッチメディアとリッチ体験を混同しないように気をつけたいと思う。
これを極端に例えると、遺伝子技術で徹底的に甘いスイカを作るのがいわゆる
リッチメディア的アプローチで、塩を一振りするのがリッチ体験のアプローチ、だろうか。
古い例だけれども、フランク・ロイド・ライトの建築で、妙に通路が狭い
設計になっている部分があって、なにかといえばその先の部屋に入ったときに
広がる風景を最大化させるために、いったん絞って心理的な効果を狙っていたりする。
こういうのだって、ユーザーから見ればリッチな体験で、むしろ資源はセーブされる。
(うろ覚え。例が違ってたらすいません)
この手の手法はディズニーランドあたりでいかんなく発揮されていて、
入園時の気持ちを盛り上げるとか、並んでるときのイライラ感を減らすとか、
鏡の配置とか、自動販売機置かないとか、建築物の縮尺ずらすとか、ネットでさがすと
色々出てくるし、関連の書籍も出ているので、非常にためになる。
ところで最近、「着エロ」が地味にブームらしいのだが、
そういう話を聞いているとリッチメディア化の臨界点が来たのだろうかと考えてしまう。
着エロというのは、全部脱がずにあえてある程度衣類を残しているエロだ。
その方向で例えてみるなら、パンチラがリッチ体験で、パンツを脱いでしまうとリッチメディアに
なるだろうか。まあ、なんとも下品な例えではある、我ながら。
広告関連で考えると、やはりその主要な目的は夢を見てもらうことであり、
夢を見せることではない。こちらが企画した夢でありながら、それを見るのは
あくまで相手であることを念頭に置く必要がある。
ところが一歩間違うと、リッチ表現で夢をオチまで見せきってしまって、相手が
満腹になってしまうということが起きる。よくある失敗例だと思う。
なんというか、「いき(粋)」にもつながる考え方かと思うのだけれど、
この概念、重要でありながら、非常に壊れ/壊されやすい。そのへんが気になるところだ。
クライアントに納得してもらうことも含めて、広告屋の腕が試されるところだ。
何が気になるかというと、リッチメディアの主語がなにかということであって、
リッチにならないといけないのは表現側でなく、ユーザー側であると思う。
言い換えると、リッチメディアでなくリッチ体験を目指そうということになる。
広告に限って言うならば、表現のリッチさと体験としてのリッチさは比例していかない。
ケースにもよるのだが、多くの場合、どこかで反比例が始まる。
そしてその「どこか」は、思ったよりもずっと手前だったりする。
なぜかというと、広告の情報量は本来、発信および到達情報量で測るのではなくて、
受信者の頭の中に広がった情報量になるのからだ。つまり、想像や妄想を含む。
それで、大切になるのはむしろ「想像や妄想」のほうなのであって、その理由は
間違いなく主語がユーザーだからである。自分で行った妄想は信じやすいということだ。
(そのへん、「そうだ、京都、行こう」を例に過去に考えたことがある。)
なのだが、一部のゲーム業界で過去に起きたような表現リッチ競争が始まって
製作側が疲弊し、結果も芳しくない・・・みたいなことが起きないだろうかと心配してしまう。
リッチメディアとリッチ体験を混同しないように気をつけたいと思う。
これを極端に例えると、遺伝子技術で徹底的に甘いスイカを作るのがいわゆる
リッチメディア的アプローチで、塩を一振りするのがリッチ体験のアプローチ、だろうか。
古い例だけれども、フランク・ロイド・ライトの建築で、妙に通路が狭い
設計になっている部分があって、なにかといえばその先の部屋に入ったときに
広がる風景を最大化させるために、いったん絞って心理的な効果を狙っていたりする。
こういうのだって、ユーザーから見ればリッチな体験で、むしろ資源はセーブされる。
(うろ覚え。例が違ってたらすいません)
この手の手法はディズニーランドあたりでいかんなく発揮されていて、
入園時の気持ちを盛り上げるとか、並んでるときのイライラ感を減らすとか、
鏡の配置とか、自動販売機置かないとか、建築物の縮尺ずらすとか、ネットでさがすと
色々出てくるし、関連の書籍も出ているので、非常にためになる。
ところで最近、「着エロ」が地味にブームらしいのだが、
そういう話を聞いているとリッチメディア化の臨界点が来たのだろうかと考えてしまう。
着エロというのは、全部脱がずにあえてある程度衣類を残しているエロだ。
その方向で例えてみるなら、パンチラがリッチ体験で、パンツを脱いでしまうとリッチメディアに
なるだろうか。まあ、なんとも下品な例えではある、我ながら。
広告関連で考えると、やはりその主要な目的は夢を見てもらうことであり、
夢を見せることではない。こちらが企画した夢でありながら、それを見るのは
あくまで相手であることを念頭に置く必要がある。
ところが一歩間違うと、リッチ表現で夢をオチまで見せきってしまって、相手が
満腹になってしまうということが起きる。よくある失敗例だと思う。
なんというか、「いき(粋)」にもつながる考え方かと思うのだけれど、
この概念、重要でありながら、非常に壊れ/壊されやすい。そのへんが気になるところだ。
クライアントに納得してもらうことも含めて、広告屋の腕が試されるところだ。
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1. リッチ体験とリッチアド。 [ アドマン2.0@デキる広告マンの作り方 ] 2007年08月21日 12:39
相変わらず、このブログにはいつも勉強させられますね。
広告β:リッチメディアとリッチ体験
http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51088291.html
去年あたり、ネット動画が流行ったり、
リッチアドが僕の周囲でやたら流行っていま...
この記事へのコメント
1. Posted by joshua
2007年08月14日 11:06
大変納得いたします。一つ思ったのは、「評価の方法」がリッチメディアとリッチ体験を間違える一つの原因なりうるのかなということです。リッチ体験を計るには情報の受け手側の頭の中を知らないとならない。でも、受け手はコミュニケーションの総体しか受け取らないものであって、一広告、一キャンペーンを計るのは至難の業です。一方でリッチメディアは、(GRPのように数字で計れないにしても)パッと見で質がいいとか面白いなど解説可能です。後者のほうが、上司に説明しやすい、企画は通りやすい、∴クライアントは安心しやすい。そんな本質とかけ離れたところにも一因がある気がします。
2. Posted by
著者(広告β)
2007年08月15日 01:20
>joshuaさん
その通りだと思います。評価の方法は広告界最大といってもいいくらいのネックです。同様に広告効果とはなにか、よい広告とは何なのかはっきりしないというのもネックですね。その定義と線引き、評価手法が見つかったときがなにかが変わるときだと思います。効果の見える化・定量化は進んではいますが、私から見ると、進んでいるのか退化しているのか微妙に見える瞬間もあったりします。
その通りだと思います。評価の方法は広告界最大といってもいいくらいのネックです。同様に広告効果とはなにか、よい広告とは何なのかはっきりしないというのもネックですね。その定義と線引き、評価手法が見つかったときがなにかが変わるときだと思います。効果の見える化・定量化は進んではいますが、私から見ると、進んでいるのか退化しているのか微妙に見える瞬間もあったりします。

