2008年05月06日
広告が環境に溶けていく日
しばらく前から自分はゲームについての本を読みあさっている。それは私がゲーマーであるからではなく、何となくこれからの広告の道を示唆する何かがゲームというものに潜んでいると考えていたからだ。もちろんそれはテレビゲームの中に企業名を仕込むとか、そういうことではない(いわゆるゲーム内広告)。もっと大きなところで、広告のメッセージ構造の転換があると考えている。
とても示唆的な言葉が斉藤由多加氏の著書「ハンバーガーを待つ3分間の値段」に書かれていたので、長いけれども抜粋する。
たとえば2ちゃんねるというものがあるけれども、あのメッセージは何だっただろうか。2ちゃんねるというシステムの中に内在するルールは一つでないけれども、たとえばメッセージとして導かれるものの一つが例の「嘘を嘘と見抜けない人は(掲示板を使うのは)難しい」という、あの言説である。これを実際に口にしたのはひろゆきであるが、一般の人々も、2ちゃんねるというルールの集合体を利用することを通じてそのメッセージを感じ取る。別に2ちゃんねるのトップページにそのことが直接メッセージとして書かれているわけではない。ポイントは「ルールに基づいたシステムを利用する中から感じ取る」のである。
これは社会学文脈で言われる「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」への変化と近いのかもしれない。従来型の広告はつまるところ広告主が「これを買うといいよ」というメッセージを何度も何度も伝えることで、人々の頭の中に流行意識を埋めつけ、結果として意図した購買行動を導くものであった。それが今後、人々はなんら広告の顔をしていない何か−2ちゃんねるのようなシステムなのかテレビゲームなのかわからないが−を使っているうちに、その制作者が意図したとおりの購買行動に導かれていくのかもしれない。まるでシムシティーにおいて人々が「公園を作ればいいのさ」というように。
5年後、あなたはある都市開発ゲームをした。攻略のためには、都市に住む人々がレジャーに出たり、互いの家を自由に行き来できるようにする必要がある。しかし一方で、公共交通では犯罪が発生する。自動車の利用が効率的なのだが、環境問題との兼ね合いを考えなければいけない。あなたは言う、「ハイブリッドカーを導入すればいいんだ」。このゲームに、実はスポンサーがいたとしたら?
10年後、あなたは画期的な英語勉強のネットサービスを目にした。無料で英語が勉強できる。実際に外国の人と画面を通して会い、会話をし、学ぶことができる。相手の外国人はプロ教師ではなく、現地の一般人だ。プログラムの節目には、「旅行に行く」「パーティーをする」という項目がある。あなたはそれを実行するために、航空券のチケットを買い、その外国人の所へ旅行に行き、パーティをする。この英語学習サービスに、もしスポンサーがいたとしたら?
ネット以降の広告クリエイティブにはすでに転換があって、それは一言でいうと「伝えた後のことを考える」ということだ。伝えてハイ終わりではなく、ツッコミを入れるのか、ネタとして友人に紹介をするのか、不明な点を知りたくて検索をするのか、とにかく行動を起こしてもらうことも含めて設計されているということが特徴として存在する。これらのことも大きく見れば「広告の顔をしない広告」のはじまりであって、まだ最初に投下される刺激のところに広告主の顔が出ている点で、顔は見えているとも考えられる。
しかし、(多少角度が異なるものの)「プロダクト・プレイスメント」と呼ばれるような、ドラマの中に広告主の商品をさりげなく登場させるような仕組みにおいては、それが広告行為であるということの明示は薄くなっていくわけで、そういうものを見ながら同業者として微妙な気分になることはある。(※現在のプロダクト・プレイスメントはCMで広告主の商品が出てくるので、まだ顔は見えている。)最終的に、それが昔あった「サブリミナル広告」的な方向性に行かないとも限らない。
「広告はこれから情報としての機能を求められている」的な、消費者の役に立つ情報を出すという論調もわからなくはないのだが、広告は広告主がわざわざお金を出して行う情報発信である以上、完全に消費者にとって都合の良い情報になるとは限らない。すでに情報自体は個々の消費者が浴びきれないほど大量に漂っているのであって、そこへ半端に中立を志向した情報広告が紛れ込むことにいったいどういう意味があるのかということも判断に困るところだ。
結局わからないのは、消費者が明確に把握することのできないメッセージをルールに埋め込むことの倫理的な意義である。幸いなところ、上述したようなメッセージの仕込み方をしている広告活動には(自分の知る限りでは)ほとんど見あたらない。周りにも、「意図的に」そういうプランニングをしている人はいないようだ。(無いとは言わないが、全くもって原始的なものだ。)しかし、ゆるやかに広告を取り巻く状況が変化していく中で、単に各媒体の予算の取り合いといった側面とは別に、より深刻な、倫理的な問題を含んでいる構造変換が訪れるとも考えられる。
そうなったときでもまだ、自分が広告業を続けたいと思うのか、それもわからない。しかし少なくともこれは広告の顔をした広告活動ではない。そして、サービスに提供者名(広告主名)を単に出しておけばいい話なのかもよくわからない。マッドサイエンティストのごとく、知的好奇心だけを頼りに突き進んでいくのか、それはもう少ししてからわかってくることなのかもしれない。
とても示唆的な言葉が斉藤由多加氏の著書「ハンバーガーを待つ3分間の値段」に書かれていたので、長いけれども抜粋する。
ゲームの企画者の意志やメッセージはどこに表現されているのでしょうか。それは、実は、「枠組み」そのものに込められているのです。(中略)『シムシティー』というゲームはシミュレーションのお手本というべき名作です。(中略)悪化した住環境を改善するには・・・?その答えは「公園を作ってやる」ことです。(中略)このゲームのプレイヤー達はやがて口々にこう言いはじめます。「環境が悪くなったら公園を作ってやればいいのさ」と。この言葉こそウィル・ライト(『シムシティー』の作者)からのメッセージなのです。ゲームのクリエイターによるメッセージというのは、実は画面内から発せられるものではありません。プレイヤーが自分の口から発するべきものです。
たとえば2ちゃんねるというものがあるけれども、あのメッセージは何だっただろうか。2ちゃんねるというシステムの中に内在するルールは一つでないけれども、たとえばメッセージとして導かれるものの一つが例の「嘘を嘘と見抜けない人は(掲示板を使うのは)難しい」という、あの言説である。これを実際に口にしたのはひろゆきであるが、一般の人々も、2ちゃんねるというルールの集合体を利用することを通じてそのメッセージを感じ取る。別に2ちゃんねるのトップページにそのことが直接メッセージとして書かれているわけではない。ポイントは「ルールに基づいたシステムを利用する中から感じ取る」のである。
これは社会学文脈で言われる「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」への変化と近いのかもしれない。従来型の広告はつまるところ広告主が「これを買うといいよ」というメッセージを何度も何度も伝えることで、人々の頭の中に流行意識を埋めつけ、結果として意図した購買行動を導くものであった。それが今後、人々はなんら広告の顔をしていない何か−2ちゃんねるのようなシステムなのかテレビゲームなのかわからないが−を使っているうちに、その制作者が意図したとおりの購買行動に導かれていくのかもしれない。まるでシムシティーにおいて人々が「公園を作ればいいのさ」というように。
5年後、あなたはある都市開発ゲームをした。攻略のためには、都市に住む人々がレジャーに出たり、互いの家を自由に行き来できるようにする必要がある。しかし一方で、公共交通では犯罪が発生する。自動車の利用が効率的なのだが、環境問題との兼ね合いを考えなければいけない。あなたは言う、「ハイブリッドカーを導入すればいいんだ」。このゲームに、実はスポンサーがいたとしたら?
10年後、あなたは画期的な英語勉強のネットサービスを目にした。無料で英語が勉強できる。実際に外国の人と画面を通して会い、会話をし、学ぶことができる。相手の外国人はプロ教師ではなく、現地の一般人だ。プログラムの節目には、「旅行に行く」「パーティーをする」という項目がある。あなたはそれを実行するために、航空券のチケットを買い、その外国人の所へ旅行に行き、パーティをする。この英語学習サービスに、もしスポンサーがいたとしたら?
ネット以降の広告クリエイティブにはすでに転換があって、それは一言でいうと「伝えた後のことを考える」ということだ。伝えてハイ終わりではなく、ツッコミを入れるのか、ネタとして友人に紹介をするのか、不明な点を知りたくて検索をするのか、とにかく行動を起こしてもらうことも含めて設計されているということが特徴として存在する。これらのことも大きく見れば「広告の顔をしない広告」のはじまりであって、まだ最初に投下される刺激のところに広告主の顔が出ている点で、顔は見えているとも考えられる。
しかし、(多少角度が異なるものの)「プロダクト・プレイスメント」と呼ばれるような、ドラマの中に広告主の商品をさりげなく登場させるような仕組みにおいては、それが広告行為であるということの明示は薄くなっていくわけで、そういうものを見ながら同業者として微妙な気分になることはある。(※現在のプロダクト・プレイスメントはCMで広告主の商品が出てくるので、まだ顔は見えている。)最終的に、それが昔あった「サブリミナル広告」的な方向性に行かないとも限らない。
「広告はこれから情報としての機能を求められている」的な、消費者の役に立つ情報を出すという論調もわからなくはないのだが、広告は広告主がわざわざお金を出して行う情報発信である以上、完全に消費者にとって都合の良い情報になるとは限らない。すでに情報自体は個々の消費者が浴びきれないほど大量に漂っているのであって、そこへ半端に中立を志向した情報広告が紛れ込むことにいったいどういう意味があるのかということも判断に困るところだ。
結局わからないのは、消費者が明確に把握することのできないメッセージをルールに埋め込むことの倫理的な意義である。幸いなところ、上述したようなメッセージの仕込み方をしている広告活動には(自分の知る限りでは)ほとんど見あたらない。周りにも、「意図的に」そういうプランニングをしている人はいないようだ。(無いとは言わないが、全くもって原始的なものだ。)しかし、ゆるやかに広告を取り巻く状況が変化していく中で、単に各媒体の予算の取り合いといった側面とは別に、より深刻な、倫理的な問題を含んでいる構造変換が訪れるとも考えられる。
そうなったときでもまだ、自分が広告業を続けたいと思うのか、それもわからない。しかし少なくともこれは広告の顔をした広告活動ではない。そして、サービスに提供者名(広告主名)を単に出しておけばいい話なのかもよくわからない。マッドサイエンティストのごとく、知的好奇心だけを頼りに突き進んでいくのか、それはもう少ししてからわかってくることなのかもしれない。
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この記事へのコメント
1. Posted by surf_eiwa
2008年05月06日 22:15
アフォーダンス理論に近い感覚です。
「環境と知覚(認知)の連動性」と意味付けた理論が、環境と○○とに転換、というか広義に解釈する必要性を感じます。言動や思考をも含み、価値とのリンクにシフトしつつある様です。
「環境と知覚(認知)の連動性」と意味付けた理論が、環境と○○とに転換、というか広義に解釈する必要性を感じます。言動や思考をも含み、価値とのリンクにシフトしつつある様です。
2. Posted by
yuri
2008年05月10日 00:46
ワクワクしながら拝見させて頂きました。
とてもエキサイティングな観点から物事を見られる方だなぁと
感銘を受けております☆
広告企画営業をさせて頂いている者として興味深いblogです!
ぜひぜひまた覗かせて下さい☆
素敵な週末を(^O^)/
3. Posted by poron
2008年05月12日 04:26
それを宗教というのではないでしょうか。
4. Posted by yuimar
2008年05月12日 21:01
いつも拝見させていただいてます。
今回は思わず「うーーー!」と声が出てしまいました
来年広告業界に踏み入れます
改めて視野を広げる大切さを思い知りました
今回は思わず「うーーー!」と声が出てしまいました
来年広告業界に踏み入れます
改めて視野を広げる大切さを思い知りました
5. Posted by tam
2008年05月18日 22:40
こんにちは。
このエントリーを読んで、キシリトールのPR戦略の事例を思い出しました。これを仕掛けた藤田康人氏は「情報クリエイティブ」と言っていますが、まさに「環境が悪くなったら公園を作ってやればいいのさ」を引き出すための空気作りを仕掛けているかんじですね。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20071114/140553/
このエントリーを読んで、キシリトールのPR戦略の事例を思い出しました。これを仕掛けた藤田康人氏は「情報クリエイティブ」と言っていますが、まさに「環境が悪くなったら公園を作ってやればいいのさ」を引き出すための空気作りを仕掛けているかんじですね。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20071114/140553/

