2008年12月28日

一億総表現社会に期待する

昔から、そして今も、コンテンツの収益化というのは難しい問題であるとおもう。ちょっと前まではCDとか、新聞紙とかいった物理的制限のあるモノを経由させることでお金をとる仕組みがあったけれど、データだけでやりとりするようになれば、コピーし放題、どうやってお金を取るのかも結構難しくなってきている。

そういったお金の取り方とは別に、コンテンツというものをどうやって評価すればいいのか、という問題もあったりする。コンテンツは消費してみないと評価し得ないうえに、ひとりひとりの時間は限られているので、そうかんたんに市場で評価すればいいというわけにもいかない。このまえ雑誌編集をやっている人と飲んだら、「煽った内容なんて本当はやりたくないが、そうしないと全然売れなくなってしまう」と愚痴をこぼしていた。

テレビには視聴率という評価基準がある。どれだけ多くの人が見たかという数値ということになっている。テレビマンはこの視聴率を効率よく高めることを目指すだろう。しかし、その結果、安直な、同じような番組が繰り返されるという批判もある。ハリウッド映画で続編ばっかり出てきてしまうのはこういった効率よい運営の結果だと思われる。批判はあるけれども、制作者側もくだらないものを作りたいと思っているわけではない。評価基準に忠実なだけだ。

なにがいいコンテンツなのかという正解がないなかで、コンテンツをみんなにとって納得のいく方法で評価する方法はないものだろうか。何かヒントがほしい。

Googleのページランクは、論文の引用回数にヒントを得ていると聞いたことがある。Googleでは、基本的にリンクの量と質で評価をつけている。単純な被リンク数に加え、リンクをたくさんされている=評価の高いサイトからリンクされることが大きなプラスになる。これはいわゆる視聴率方式とはちょっと違う。視聴率方式でそのまま考えるなら、各サイト(ページ)の閲覧回数=ページビューで測るはずだ。

閲覧回数(ページビュー)ではなく、リンクによって評価されるとはいったいどういうことなのか。閲覧回数を、いま視聴率と同じものだとすると、リンクはどういう意味を持つのだろう。

ここで注目したいのは、ウェブにおいては、閲覧する人種と、リンクをする人種はちょっと違うということだ。ウェブにおいて、リンクを貼る人というのは、元コンテンツを見ただけではなく、少なくとも何かを書く人である。画面を眺めている=閲覧者であるだけではリンクを貼れない。ブログでも何でもいいけれど、自分の持っているサイトに何か書かないといけない。あたり前の話だ。

つまり、大ざっぱに言うと、閲覧回数でなくリンクで評価するというのは、こういうことではないか。読み手ではなく、書き手による評価を信用する。そして、読み手ではなく書き手による評価を重視するというのは、考えてみれば理にかなっている制度だ。

だいたいにおいて、人気による評価を基準にコンテンツを試聴するような人は、別にそのコンテンツを評価したくて試聴しているわけではないし、そもそも評価基準がわからないから人気に頼っているのである。なにも無理して、評価する気のない人の視聴行動を評価基準にする=販売数・試聴数・閲覧数による評価をする必要がない。(もちろん、コミュニケーションの肴としてのコンテンツということであれば、「みんなが見ているアレ」にはそれだけで価値がある)

一億総表現社会という言葉がある。
ウェブサイト経由での発信という意味では、一億総表現にはなりそうもないし、なる必要もないと思う。しかし、少なくとも今まで発信者が10人くらいだったとすると、それは100人くらいになったのではないだろうか。増えた90人は、今までどおりユーザーでもあるが、新たに生まれたメイカーでもある。急に増えたその90人、仮にいまそれをブロガーと限定してしまうと、ブロガーの可能性は彼らの書くブログそれ自体よりもむしろ、メイカーとしてのコンテンツ評価力にあるのではないだろうか。調べたわけではないのでなんともいえないけれど、大まかに言って、ブロガーは(他人の)ブログをよく読む。そして、当然ながら書く。読む目と、書く目を持っている。

ケータイ小説が受け入れられた理由がよくわからなかった。先日、地下鉄の中で、(たまたま)ケータイを持って立っている女性を後ろから眺めていた。彼女は、メールを書いたり読んだりしていたが、ケータイ小説も読んでいた。後ろから見ていると、その行為は同じように見えた。ケータイ小説の市場は、メールの延長上−個々のユーザーが書くメールが長くなったものであり、メールを書いている人はその延長としてのケータイ小説を受け入れているのではないだろうか。
いささか無謀にも推測してしまうと、携帯メールを読むこととケータイ小説を読むことは非常に近く、携帯メールを書く/読む経験に長けていればいるほど、その延長としてのケータイ小説のよきユーザーになるのではないのだろうか。

私は小説をほぼまったく読まないが、作家さんのブログは好きだ。優れた書き手がもつ、独特の評価眼に強く惹かれる。同様に、デザイナーのブログも好きだ。彼らは優秀なつくり手であると同時に、優秀な評価者でもある。

一億総表現社会はたぶん来ない。しかし、一千万総表現社会くらいならなんとかなるだろう。そのときに、その一千万の人が持つ「つくり手としての評価の眼」に、コンテンツ評価の未来がかかっているのかもしれない。

プロのコンテンツメイカーは、これから苦しくなるだろう。しかし、目の肥えた評価者が増えるという解釈が可能ならば、あるいは希望が持てるのではないだろうか。

koukokugyokai at 21:37 │Comments(2)TrackBack(2)

トラックバックURL

この記事へのトラックバック

1. ネット利用能力の格差は広がっているのか?  [ だからぁ ]   2008年12月30日 10:43
あっち側の人とこっち側の人と言う議論があった。梅田望夫さんが書いた「ウェブ進化論」で使われた言葉である。知の高速道路化なんていう言葉も誕生し、その現実的な現象として先日の歴史的な戦い(永世竜王戦-羽生対渡辺戦)が生まれたとも思う。また日本でもアルファーブ
2. 人気のあるもの・人気のないもの  [ o xein’, angellein... ]   2009年01月01日 10:33
ポットのお湯がぬるいので、いれたインスタントコーヒーもすぐぬるくなってしまう冬の朝です。帰省した実家では北らしく雪がちらつく日もあり、随分久しぶりに見る気がする石油スト...

この記事へのコメント

1. Posted by Life2.0    2009年01月07日 00:03
非常に興味深いエントリーだと思いました。

読んだ瞬間、すぐにessaさんの
price 本位制から link 本位制へ
http://d.hatena.ne.jp/essa/20081130/p1
という記事を思い出しました。
このessaさんの記事は、
「標準的なcontextがない状態でのコミュニケーションを成立させている(≒textの代替になっている)のが、今まではpriceであったが、これからはlinkである」
「(priceより)linkの方が、知識主導の経済と相性がいい。」
という記事ですが、
この広告βさんの記事は、このlinkという仕組みがそもそも成立する前提(=一億総表現社会)と、linkの意義(=priceに代わる新しい価値付けの必要性)を、より具体的に書いたものだと受け止めました。

この2つの記事で鮮やかに論ぜられている視点は、これからの新しいビジネスモデル、例えばWeb2.0のマネタイズを考える際に、とても重要なポイントになると思います。

essaさんの記事の重要性は分かっていながらも、何となくモヤモヤしていたものがスッキリしました。ありがとうございました。
2. Posted by 広告β    2009年01月12日 04:14
>うめさん
おおっと。お久しぶりです。
essaさんのエントリは自分も読んでいて、ブックマークもしているのに忘れていました。いや、忘れていなくて、無意識のうちに反映されたのかもしれません。
指摘していただくと「そうか!」と自分でも納得できます。ありがとうございます。

リンクによる評価は、エントリにもあるようにアカデミックな部門での評価法が元になっています。それつながりで言うと、下記のエントリでは引用だけである場合にも偏りは生じるかもしれないという視点を提出しています。
http://harvardmedblog.blog90.fc2.com/blog-entry-304.html

直接は関係ないですが参考まで。

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔