2009年07月29日
課金の心理面を考える
買い物に関する調査をどこかで見たことがある。買い物におけるストレスというもの。そこで自分が驚いたのは、レジがストレスになっているということだった。もちろん、レジに並ぶのは面倒だし、待つのでストレスだ。しかしストレスはそこにだけあるのではない。「お金を払う」という行為がストレスなのだ。持ち金が減るからストレスなのだという話ではない。
お金を払うことの意味が、だんだん重くなっていると思う。というのも、選択やら検討はどんどん自由度が高まる分だけ、それを一気に収束させる「支払い」の持つ意味が大きくなるからだ。多くの商品が「選び得て」、大きな流行がなくなり「個人の自由に判断できる」ようになれば、それだけそれを「終わりにする」ことの意味が大きくなる。選択肢が多くなるほど、人は判断を保留させがちだという話も聞いたことがある。それは、決めることの意味が大きくなってしまうからだ。大きなダムの出水口には、大きな負荷がかかる。
支払いというのは踏み絵のようなところがある。なんとなく、というわけにはいかない。支払ったら、そこで後戻りはできないし、意識するしないに関わらず、「私はこれを選択しました!」という意思表明になってしまうからだ。そこに他人の目がなくても、自分の心の目がある。大げさではなく、そういうところがある。
なんとなく支払える仕組みがあるということは強い。ケータイの支払いは、実に「なんとなく」行われる。リアルなお金を目にしないということはもちろん、請求も携帯キャリアを通して行われ、通話料金にまぎれてよく見えない。さらに若い人などだと、親が通話料金を支払っていたりして、もはや完全に見えないところにある。でもPCではそうはいかない。ならば、どういう方向性があるか。
基本として「Webでお金を払って楽しむことはかっこいい、先進的だ」という認識を、限定的にでも作っていくことが大切だと思う。ネットの先進ユーザーとされる人々は、技術を駆使して無料で手に入れることを良しとする場合が多い。この考え方は、課金の考え方と真っ向から対立する。いまはどうだか知らないが、ネットでもっとも検索されるワードはかつて「無料」だった。無料が良し、無料ほど偉いとされる文化と、どう折り合いをつけるか考えること無しには、ネットの課金サービスは難しいのではないか。
人は、自分の誇りを傷つけるような消費をしたがらない。ネットを自由自在に使いこなし、無料で色々手に入れることを誇りと感じているような人は、少額課金であってもそれは誇りを傷つけることになる。そうなればできるだけ意識せず、その踏み絵を「なんとなく」行えるのがいいのかもしれないが、ここは技術的な問題が大きく絡む。何らかの方法で、お金を支払うということと誇りというものを接続させることが重要になってくる。このへんを前提にいくつか。
まずベタだけれど、「時間の短縮」はどうだろう。「無料でも手に入れられるけれども、時間を短縮するためにお金を払う」な感じ。誇りと関連づけるならば、「私は忙しいからお金を払う→忙しい私ってエライ」である。インターネットのコンセプトのひとつは「無限」だけれど、現実の人間は無限の時間など持っていない。このあたりをテコに考える方法。この場合、膨大な時間を持っている人は無視することにはなる。
もう1つは、「返金サービス」である。最初にお金は払うけれど、満足できなかったら返金します、そういうものだ。リアルな買い物では、これは一定の効果をあげたりする。この取り組みがどういう意味を持つかというと、つまり購買を最後の瞬間にしない、後戻りができる途中の段階に持って行ってしまうということだ。ただ、リアルな買い物は返品そのものが面倒だけれど、Webサービスは返品しようもないし、面倒な感じもあまりない。いずれにせよ、支払いの瞬間に訪れる「踏み絵」の重さをうやむやにして、少しでも軽くしようというというアプローチ。
3つめは、時間差。いまの先進ユーザーが「無料=先進=カッコイイ」という考え方をずっと持ち続けると考えるならば、それを逆手に取る。コンテンツ公開の段階ではお金を取らない。速く見つけた人は無料。しかし1000人目からは段階的に有料になる。ある一定以上の人気を集めたコンテンツは、自動的に有料になる仕組み。人気のあるものを手軽に見たければお金を払えばいいだけ。技術的な問題は絡むけれど、心理的には現状のままで結構いけるのが強い。好きなアイデアだけれど、これでうまくいっているという話は聞かない。
無料ユーザーと有料ユーザーの絡みを利用するという方向ではさらに、ユーザー間のパトロン制というのもあるのかもしれない。有料ユーザーの可視化はいまでも行われているけれど、彼らが支えているものを「全体」ではなくて「個人」にしてしまうという方向。有料ユーザーは、たとえば月300円で2人を養うことができる。面白い投稿をしたり、年齢は若いけど勢いのあるユーザーを2人養えば、彼らは無料で参加できる、みたいな形だ。そうなると無料ユーザーはそれなりに意味のある行動や他者貢献をしたいというモチベーションが働くかもしれないし、有料ユーザーを通してシステムの維持も考えられるという算段だ。
かつて宗教ではお金持ちがたくさん寄付をしていたし(今もか)、小集団での持ちつ持たれつなお金の貸し借りもあったりした。単にサービス提供の対価として個別課金というスタイルにこだわらず色々考えれば、お金の回り方もなにか思いつくんじゃないかなと思ってたりするのだけれど、無責任だろうか。
お金を払うことの意味が、だんだん重くなっていると思う。というのも、選択やら検討はどんどん自由度が高まる分だけ、それを一気に収束させる「支払い」の持つ意味が大きくなるからだ。多くの商品が「選び得て」、大きな流行がなくなり「個人の自由に判断できる」ようになれば、それだけそれを「終わりにする」ことの意味が大きくなる。選択肢が多くなるほど、人は判断を保留させがちだという話も聞いたことがある。それは、決めることの意味が大きくなってしまうからだ。大きなダムの出水口には、大きな負荷がかかる。
支払いというのは踏み絵のようなところがある。なんとなく、というわけにはいかない。支払ったら、そこで後戻りはできないし、意識するしないに関わらず、「私はこれを選択しました!」という意思表明になってしまうからだ。そこに他人の目がなくても、自分の心の目がある。大げさではなく、そういうところがある。
なんとなく支払える仕組みがあるということは強い。ケータイの支払いは、実に「なんとなく」行われる。リアルなお金を目にしないということはもちろん、請求も携帯キャリアを通して行われ、通話料金にまぎれてよく見えない。さらに若い人などだと、親が通話料金を支払っていたりして、もはや完全に見えないところにある。でもPCではそうはいかない。ならば、どういう方向性があるか。
基本として「Webでお金を払って楽しむことはかっこいい、先進的だ」という認識を、限定的にでも作っていくことが大切だと思う。ネットの先進ユーザーとされる人々は、技術を駆使して無料で手に入れることを良しとする場合が多い。この考え方は、課金の考え方と真っ向から対立する。いまはどうだか知らないが、ネットでもっとも検索されるワードはかつて「無料」だった。無料が良し、無料ほど偉いとされる文化と、どう折り合いをつけるか考えること無しには、ネットの課金サービスは難しいのではないか。
人は、自分の誇りを傷つけるような消費をしたがらない。ネットを自由自在に使いこなし、無料で色々手に入れることを誇りと感じているような人は、少額課金であってもそれは誇りを傷つけることになる。そうなればできるだけ意識せず、その踏み絵を「なんとなく」行えるのがいいのかもしれないが、ここは技術的な問題が大きく絡む。何らかの方法で、お金を支払うということと誇りというものを接続させることが重要になってくる。このへんを前提にいくつか。
まずベタだけれど、「時間の短縮」はどうだろう。「無料でも手に入れられるけれども、時間を短縮するためにお金を払う」な感じ。誇りと関連づけるならば、「私は忙しいからお金を払う→忙しい私ってエライ」である。インターネットのコンセプトのひとつは「無限」だけれど、現実の人間は無限の時間など持っていない。このあたりをテコに考える方法。この場合、膨大な時間を持っている人は無視することにはなる。
もう1つは、「返金サービス」である。最初にお金は払うけれど、満足できなかったら返金します、そういうものだ。リアルな買い物では、これは一定の効果をあげたりする。この取り組みがどういう意味を持つかというと、つまり購買を最後の瞬間にしない、後戻りができる途中の段階に持って行ってしまうということだ。ただ、リアルな買い物は返品そのものが面倒だけれど、Webサービスは返品しようもないし、面倒な感じもあまりない。いずれにせよ、支払いの瞬間に訪れる「踏み絵」の重さをうやむやにして、少しでも軽くしようというというアプローチ。
3つめは、時間差。いまの先進ユーザーが「無料=先進=カッコイイ」という考え方をずっと持ち続けると考えるならば、それを逆手に取る。コンテンツ公開の段階ではお金を取らない。速く見つけた人は無料。しかし1000人目からは段階的に有料になる。ある一定以上の人気を集めたコンテンツは、自動的に有料になる仕組み。人気のあるものを手軽に見たければお金を払えばいいだけ。技術的な問題は絡むけれど、心理的には現状のままで結構いけるのが強い。好きなアイデアだけれど、これでうまくいっているという話は聞かない。
無料ユーザーと有料ユーザーの絡みを利用するという方向ではさらに、ユーザー間のパトロン制というのもあるのかもしれない。有料ユーザーの可視化はいまでも行われているけれど、彼らが支えているものを「全体」ではなくて「個人」にしてしまうという方向。有料ユーザーは、たとえば月300円で2人を養うことができる。面白い投稿をしたり、年齢は若いけど勢いのあるユーザーを2人養えば、彼らは無料で参加できる、みたいな形だ。そうなると無料ユーザーはそれなりに意味のある行動や他者貢献をしたいというモチベーションが働くかもしれないし、有料ユーザーを通してシステムの維持も考えられるという算段だ。
かつて宗教ではお金持ちがたくさん寄付をしていたし(今もか)、小集団での持ちつ持たれつなお金の貸し借りもあったりした。単にサービス提供の対価として個別課金というスタイルにこだわらず色々考えれば、お金の回り方もなにか思いつくんじゃないかなと思ってたりするのだけれど、無責任だろうか。
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この記事へのコメント
1. Posted by dreamyou 2009年08月03日 11:20
個人的な興味領域どまんなかだったので、ついコメント。
課金ビジネス(≒ビジネス全般)において「無料+有料」の可能性は巨大ですよね。
あと、「金銭の支払い」の代わりに「労働の提供」はあるんじゃないかと思ってます。
(ん?最近それ指摘してたのβさんでしたっけ?w)
また、クリス・アンダーソンの「freemium」なんかもっと話題になっていいと思うのですが。。
最近のマックの無料コーヒーなんかも、この考え方に近いですよね。(PRも考慮されてますが)
課金ビジネス(≒ビジネス全般)において「無料+有料」の可能性は巨大ですよね。
あと、「金銭の支払い」の代わりに「労働の提供」はあるんじゃないかと思ってます。
(ん?最近それ指摘してたのβさんでしたっけ?w)
また、クリス・アンダーソンの「freemium」なんかもっと話題になっていいと思うのですが。。
最近のマックの無料コーヒーなんかも、この考え方に近いですよね。(PRも考慮されてますが)
2. Posted by 広告β 2009年08月04日 01:00
どんなビジネスでも、無料の部分と有料の部分があったりしますね。僕らのビジネスでも、競合プレゼンで資料を作ってプレゼンするところまでは無料(だいたい無料)だったりするわけで。
お金を支払うということを広く考えれば、同じ意味を持つ別の行動=労働とかにも展開できますし、ニコニ広告みたいに投票の用紙みたいにもつかえるわけですよね。
意外とこの辺のアイデアが日本から出てきそうな気もします。
お金を支払うということを広く考えれば、同じ意味を持つ別の行動=労働とかにも展開できますし、ニコニ広告みたいに投票の用紙みたいにもつかえるわけですよね。
意外とこの辺のアイデアが日本から出てきそうな気もします。
3. Posted by 774 2009年08月05日 00:13
冒頭、特に2段落目で(金融商品の)オプションの価格形成のことを連想した。雑な連想ですけど、マネーの持つ選択の幅が大きくなった分、マネーに余分な(?)プレミアムが乗ったようなものかなあと。でもこれって、モノとサービスに比べてキャッシュの価値が上がってしまったようなものだから、結局、選択の幅が大きくなったことは、実は世の中をデフレ気味に推移させる一要因になっているのかも知れない?(そんなこと考えたこともなかったけど。なんとなく、ほとんどの人が必要なものを入手し終わって、消費をしなくなっってきたので、デフレ気味に推移しているんだろうと思ってた。)
4. Posted by 広告β 2009年08月05日 02:00
どんどん「可能性」というものの重さが増していくということではないかと思います。お金はまだ商品に換えられていないという意味で、可能性の一つの象徴だと思いますね。
選択肢があればあるほど、その源流としての可能性の時点で尻込みする人が増えるという考え方はあり得ると思います。
キャリアプランとかもそうですが、多くの選択肢を残しておく=最大の可能性を残しておくというところに注力しすぎると、いざ変換・・・なにかに限定しなければいけないときのプレッシャーが増しますね。それこそ自由からの逃走がおきるのではないでしょうか。
選択肢があればあるほど、その源流としての可能性の時点で尻込みする人が増えるという考え方はあり得ると思います。
キャリアプランとかもそうですが、多くの選択肢を残しておく=最大の可能性を残しておくというところに注力しすぎると、いざ変換・・・なにかに限定しなければいけないときのプレッシャーが増しますね。それこそ自由からの逃走がおきるのではないでしょうか。
5. Posted by matsumo 2009年09月20日 22:23
クレジット文化のその先の返品可、というところで、消費大国アメリカのストレスは発散されているのかもなぁ、と思いながら読ませて頂きました。

