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<title>広告β</title> 
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<modified>2009-11-14T23:27:26Z</modified> 
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<title>ナントカ感の正体</title> 
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<modified>2009-11-14T14:27:20Z</modified> 
<issued>2009-11-14T23:27:20+09:00</issued> 
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<summary type="text/plain">仕事をしていると、たまに謎ワードを聞くことがある。「登場感が欲しい」とか。これはかなり謎だ。わかるようで、わからない。登場感、何となくわかるような気がするが、じゃあそれを作るためには何が必要なのかと考え始めると苦しい。これに限らず、ナントカ感、とつくよう...</summary> 
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<![CDATA[仕事をしていると、たまに謎ワードを聞くことがある。「登場感が欲しい」とか。これはかなり謎だ。わかるようで、わからない。登場感、何となくわかるような気がするが、じゃあそれを作るためには何が必要なのかと考え始めると苦しい。これに限らず、ナントカ感、とつくような言葉がある。スピード感、緊張感、劣等感・・・「感」がつくことによって、どういう変化があるのだろう。<br>
<br>
女性が言う、もてる男の条件に「清潔感」というものがある。これは清潔とは違う。単に風呂に入り、歯磨きをしてもだめだ。清潔感にはおそらく二つ条件がある。ひとつは、「手入れをしていることがうかがえる感じ」。無精ヒゲとか、衣服のしわ等がマイナス要因になる。無造作ヘアというのは、ぼさぼさ髪と紙一重だけれど、手入れをしている感じがうかがえればOKだ。もう一つは、「健康であることの表示」。適度な日焼けや、吹き出物などがない肌というのがポイントになる。これらは正直、清潔さとはほとんど関係がない。でも、清潔感とは深い関係がある。<br>
<br>
あるウェブサイトを見ているとき、感心したことがある。スピードを表現しているのだけれど、サイトが非常に軽い。大画面の映像で、スピーディーな表現をやろうとすると、たいてい重たいサイトになってしまう。しかし、このサイトではスピード感を表現していた。よく見ると、表示はコマ送りでしかないのだが、一つ一つのコマは静止画ではなく、動いている残像のコマなのだ。コマ送りでしかなくとも、残像が入っていることによって、人間はスピード感を感じることができる。スピードではない、スピード感の表現。<br>
<br>
もっと抽象的に、自由と自由感の違いというものもありそうだ。自由というのは、何にも妨げられないで主体的に振る舞えることだと言える。では、何もない画用紙に、好きに自分を表現する、というのは自由だろうか。客観的には自由かもしれないが、頼りどころがない。子供だったら、塗り絵の枠線が書かれている方が自由だろう。Twitterは、好きにつぶやけと言う。そのとき、140字の文字制限がある。好きにつぶやけというのは不安を感じさせるけれど、140字の限定は自由感をもたらす。あるサイズの限定は自由ではないかもしれないけれど、自由感を生む。<br>
<br>
バックパックを背負って海外に出かけていたころ、マレーシアのなんだかわからない街に泊まったことがある。長距離鉄道に乗っていて、たまたまそこで降りただけ。観光地でもなく、日本人も見あたらない。そんな街に、ほとんど誰も泊まっていない宿があった。一泊、百円くらいだったその宿には、窓にガラスはなく、シャワーも水しかでない。じゅうたんもなく、布らしきものはベッドの上にしかない。備品と呼べるものは灰皿くらいで、この灰皿だって何かの食品の缶詰が置いてあるだけで、ほかには豆電球が部屋に一つ。そんな宿だったが、気持ちは非常に自由だった。こんな状況で感じる自由は、自由というより自由感だろう。<br>
<br>
「感」がつくとき、その概念は人間のカタチになっている。わかるようでわからないこの「ナントカ感」を把握することが、表現やコミュニケーションにおけるコツなのかもしれない。]]> 
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<title>一方ロシアが鉛筆を使うには</title> 
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<modified>2009-10-18T00:27:39Z</modified> 
<issued>2009-10-04T04:30:43+09:00</issued> 
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<summary type="text/plain">ちょっと好きなジョークがある。
アメリカのNASAは、宇宙飛行士を最初に宇宙に送り込んだとき、無重力状態ではボールペンが書けないことを発見した。
これではボールペンを持って行っても役に立たない。
NASAの科学者たちはこの問題に立ち向かうべく、10年の歳月と120億ド...</summary> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51669407.html">
<![CDATA[ちょっと好きなジョークがある。<br>
<blockquote>アメリカのNASAは、宇宙飛行士を最初に宇宙に送り込んだとき、無重力状態ではボールペンが書けないことを発見した。<br>
これではボールペンを持って行っても役に立たない。<br>
NASAの科学者たちはこの問題に立ち向かうべく、10年の歳月と120億ドルの開発費をかけて研究を重ねた。<br>
その結果ついに、無重力でも上下逆にしても水の中でも氷点下でも摂氏300度でも、どんな状況下でもどんな表面にでも書けるボールペンを開発した！！<br>
一方ロシアは鉛筆を使った。</blockquote>実話ではないらしいが、なにか、重要なことが含まれているような気がする。<br>
<br>
トヨタだったか、彼らは「なぜ？」を5回繰り返すという。徹底的に考えて、カイゼンを進めていく。この徹底した態度は重要だ。しかしこれとはまた異なる、デザイナーの考え方が好きだ。彼らは、「なぜ？」から入っていって、最後は「もし～だったら」で出てくる。<br>
<br>
冒頭のジョークでいうと、無重力状態でボールペンが書けないというところで「なぜ？」がはじまる。このまま「なぜ？」を繰り返すと、インクが無重力では機能しない、というところへ行き、そこからインクの液体としての特性がどうのこうの、という方面に解決を求めていくのだろう。でも、「なぜ？」を繰り返すと、袋小路に入っていくことがある。どこかで、「もし」を使わないといけない。「もし、ペンでなくてもよかったとしたら」。<br>
<br>
コロンブスの卵も、似たところがある。あの話は、周りの人が「そんなことだったら俺にだってできたよ」という反応に対する「最初にやることが重要なんだよ」という教訓のようだが、おそらく別の教訓がある。つまり、卵を割って立てることが重要なのではなくて、卵を割ってもいいという前提をつくりだせるかどうか、が重要なのだと。「もし、卵を割っても良かったとしたら」。<br>
<br>
仕事で、客先の偉い人と対面することがある。偉い人物はたいていおもしろい。彼らのおもしろさは、世界に対する仮定にある。自分が思いもつかなかった前提で世界を見ている。実際に彼らの口から出てくるのは、その前提に立った上での世界に対する感想なのだけれど、おもしろい前提がそこから透けて見えてくる。彼らのすごさは、前提のすごさだ。言い換えると、「もし」のすごさだ。<br>
<br>
アインシュタインのこの言葉が好きだ。「問題をつくりだした時と同じ考え方では、その問題を解決することはできない。」ここでいう「考え方」というのは、前提となる世界観、「もし」のことだと思う。もし、卵を割ってもいいのだとしたら、もし、リンゴは落ちているのではなくて引っ張られているのだとしたら。もし、宇宙空間で使うのがボールペンでなくてもいいとしたら。<br>
<br>
<blockquote>もし本当に画期的なアイデアだったら、背景となる知識・経験が他人とちがったものになっているはずなので、しゃべっても絶対に理解してもらえないから大丈夫。<br>
（<a href="http://d.hatena.ne.jp/kawango/20090605/1244190501">自分の考えたアイデアを内緒にしたがるひと - はてなポイント３万を使い切るまで死なない日記</a>）</blockquote>仮説思考が重要だ、ということがよく言われる。仮説を持つことで、無駄な作業が減るし、考えがシャープになる。しかしそれだけではなく、「なぜ」だけでは袋小路に入っていくし、個別最適な解決になってしまうことを防ぐ「もし」の重要さもあるはずだ。強力な「もし」は、汎用性があるし、コピーされにくい。すぐれた商品やサービスの背景には理論があるし、その理論の背景には「もし」という名前の世界観がある。真にコピーすべきは、そこなのだろう。]]> 
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<title>牛型の情報収集</title> 
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<modified>2009-09-30T16:42:20Z</modified> 
<issued>2009-10-01T01:42:20+09:00</issued> 
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<summary type="text/plain">牛には4つの胃がある。食べたものを胃に送って、また口に戻して噛んで、それを何度か繰り返して最終的に消化する（反芻する）ようだ。なぜそんなことをするのか気になったが、食べ物をたべる時間がない中で、消化の悪い草をなんとかして栄養にしなければいけなかったから、ら...</summary> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51668160.html">
<![CDATA[牛には4つの胃がある。食べたものを胃に送って、また口に戻して噛んで、それを何度か繰り返して最終的に消化する（反芻する）ようだ。なぜそんなことをするのか気になったが、食べ物をたべる時間がない中で、消化の悪い草をなんとかして栄養にしなければいけなかったから、らしい。敵がいないうちにムシャムシャ草を食べ、その後で警戒しながら反芻する、というイメージだろうか。勝手な話だけど、これはネット以降の情報収集スタイルに近いのではないかと思う。<br>
<br>
インターネット以降は、利用できうる情報量が圧倒的に増えた。しかし持ち時間そのものが増えたわけではないので、情報はたくさんあるのに時間は足りないということがよくおきる。しかも、情報源もさまざま、単なる個人だったりすることも多いので、信用していいものかどうか、あるいは自分と関係のある情報かどうかもわからなかったりする。どうやって役に立てればよいのだろう。<br>
<br>
方法はいろいろある。まずは従来からある方法で、よいとわかっている草を食べる。つまり、信用できる人を見つけて、その人からの情報を信頼して食べる。権威付けをするという意味では、みんなが食べている草を食べるというのも同じ考え方だ。<br>
<br>
あとは、胃の性能を上げる。情報を仕分けして整理して、なるべく早く消化できるようにする。高性能なツールを使う。あるいは、自分の頭を良くして、素早く深く理解できるようにする。これは、なかなか難しい。<br>
<br>
そして最後に牛のアプローチ、反芻である。なんどもなんども食べる。一見、効率が悪い。時間が余計にかかっているようにさえ見える。なぜ反芻する必要があるのか。<br>
<br>
理由は明快で、1番目と2番目のアプローチは、視野が狭くなる可能性があるからだ。自分の欲しい情報や興味のある情報に最適化すればするほど、情報源が狭くなる。よくわからないけれど実は意味のあることだったり、いますぐにはわからないけれど自分にとって重要かもしれない情報というものが、漏れてしまう可能性がある。あるいは、全く分野は異なる情報でも、自分の興味範囲に応用できることがあるかもしれない。こういうものは、草に例えていうなら消化が悪い。しかし、幅広い情報を手に入れられる時代だし、せっかくなので生かしたい。そこで消化の悪い草にも効く、牛型の情報収集が必要になる。<br>
<br>
牛型の情報収集における基本は、とにかく食べるということである。こいつは食べ物かもしれない、と思ったらとにかく食べる。つまり、少しでも気になったら、とにかくクリップする。明らかに賛成・反対だったり、もうわかりきっていることというのは確実な食べ物なので、牛型の情報収集からは外れる。よくわからないけど、何かひっかかりがある・・・くらいがちょうどいい。とにかく貯める。<br>
<br>
この引っかかり、必ず理由がある。その理由が判明するのは、明日かもしれないし、1年後かもしれない。少なくとも私の経験では、なんだかわからないけどちょっと気になるものというのは、自分にとって重要なものだ。最初の時点でその理由がわかっている必要はない。理解する必要もない。そこで理解できてしまうなら、あえて貯めておくべき情報ではなかったということだ。<br>
<br>
最初の消化においては、ちょっとした感想とか、なぜ気になったのかをわかる範囲で書いておくだけ。最初の消化となる。その後、1週間なりして、もう一度見る。ポイントは、自分の感想だけを見ること。最初の感想だけを見れば、何を見て書いたものかは十分に思い出せるし、重要なのは、なぜ自分がこれを気にしたのか、ということを理解することだから。このときに、感想をたくさん通して見ていくと、そのとき考えていたこと全体の輪郭が見えることがある。<br>
<br>
ある程度消化できたら、考えたことをある程度まとまった形にして書き残しておくのがいい。ブログに書いてみるのが一番いいと思う。この文章もそうやって書いている。ブログに書いた時点である程度の消化はできているけれど、それに対する反応が返ってくると、さらに消化が進んだりもする。この時点で、自分だけでなく他人の胃を使って反芻をはじめることになる。<br>
<br>
最後に、自分の書いた文章（上記でいうとブログ）を一気に通読する。最後の反芻になる。意味がないようにも思えるが、やってみると新鮮だ。一気にたくさん読むのが重要で、そこから見えてくる全体の輪郭というのが、最終的な消化だ。意外と深いことを考えている、自分の大きな問題意識みたいなものがわかると、気分がいい。ここでも内容それ自体ではなく、なぜ自分はこんなことを書いているのか考えることが重要だ。<br>
<br>
数が多く、それぞれが細かい情報をうまく生かしていくためには、都度都度ではなく大きく理解することが重要だと思う。そのとき助けになるのが、自分の「なんとなく気になる、ひっかかる」という意識だ。そこには必ず理由があるし、それこそが自分がまだ把握できていない問題意識だ。人生訓ではないが、答えは自分の中にあることが多い。ネットを鏡のように利用して自分の考えを深めるために、牛型の情報収集が役に立てばいいなあと思う。]]> 
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<title>おもしろ広告は機能しているか？</title> 
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<modified>2009-07-29T15:57:50Z</modified> 
<issued>2009-07-30T00:57:50+09:00</issued> 
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<summary type="text/plain">興味深い実験をみた。
ある実験で、ヘッドフォンの架空のモニター調査を行い、集まった人たちに音の良し悪しや欲しいと思うかなどを用紙に記入してもらいました。しばらくしてから、同じ参加者にインタビューします。2本のペンを見せて、どちらが好きかを聞くのですが、実は...</summary> 
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<![CDATA[興味深い実験をみた。<br>
<blockquote>ある実験で、ヘッドフォンの架空のモニター調査を行い、集まった人たちに音の良し悪しや欲しいと思うかなどを用紙に記入してもらいました。しばらくしてから、同じ参加者にインタビューします。2本のペンを見せて、どちらが好きかを聞くのですが、実は、片方のペンは最初のアンケートに使ったもので、もう片方は別の種類のペンなのです。すると、ヘッドフォンに好意的な評価を書いた人はそのときのペンを選び、ネガティブな感想を書いた人は別のペンを選ぶという具合に、見事に二分されました。ヘッドフォンがよかったので、ペンまで気に入ってしまった、というわけで、逆の場合も理屈は同じです。こういう風に好き・嫌いが波及することを「汎化」といいます。（<a href="http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2008_13/fea_ikegaya_04.html">13号：やる気は脳ではなく体や環境から生まれる</a>）</blockquote><br>
おもしろい広告を作る人がいる。それを見て、「面白ければいいわけじゃない、売れないとダメだ」というのは正論だ。見る人を楽しませるボランティアをやっているわけではない。いままで自分は、おもしろい広告のほうが記憶には残りやすいという機能はあるかもなあ・・・くらいの認識だった。<br>
<br>
冒頭の調査結果から、こういう推測はできるだろうか。「おもしろい広告を見たときに訴求されている商品については、好感を持ちやすい」。いままでも、おもしろ系の広告は好感度の数値も高い傾向がある・・レベルのデータはあったけれど、そこで同時に訴求されている商品やサービスについてどう効果があるかというのは不明瞭だったように思う。<br>
<br>
一部のバナー広告や屋外広告、テレビでのCMもそうだけれど、クリックや商品購買のような行動で測定しにくいものに関する指標はずっと問題になっている。仮に「おもしろ度」みたいなものが計測されて、それが意味をもたらすということがわかるのならば、機能を合理的に訴求できない場合（話が細かくなるとか、購買直近でない人へのコミュニケーションとか）の広告開発についてなんらかのヒントになるのかもしれない。<br>
<br>
機能の善し悪しが本当に問題になる場合って実はそんなに多くない（というかそれさえ主観的）と思うけれども、なんだか抱き合わせ商法みたいにもみえるのが悩みどころ、かな。]]> 
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<title>課金の心理面を考える</title> 
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<modified>2009-09-20T13:23:17Z</modified> 
<issued>2009-07-29T01:24:15+09:00</issued> 
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<summary type="text/plain">買い物に関する調査をどこかで見たことがある。買い物におけるストレスというもの。そこで自分が驚いたのは、レジがストレスになっているということだった。もちろん、レジに並ぶのは面倒だし、待つのでストレスだ。しかしストレスはそこにだけあるのではない。「お金を払う...</summary> 
<dc:subject></dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51633480.html">
<![CDATA[買い物に関する調査をどこかで見たことがある。買い物におけるストレスというもの。そこで自分が驚いたのは、レジがストレスになっているということだった。もちろん、レジに並ぶのは面倒だし、待つのでストレスだ。しかしストレスはそこにだけあるのではない。「お金を払う」という行為がストレスなのだ。持ち金が減るからストレスなのだという話ではない。<br>
<br>
お金を払うことの意味が、だんだん重くなっていると思う。というのも、選択やら検討はどんどん自由度が高まる分だけ、それを一気に収束させる「支払い」の持つ意味が大きくなるからだ。多くの商品が「選び得て」、大きな流行がなくなり「個人の自由に判断できる」ようになれば、それだけそれを「終わりにする」ことの意味が大きくなる。選択肢が多くなるほど、人は判断を保留させがちだという話も聞いたことがある。それは、決めることの意味が大きくなってしまうからだ。大きなダムの出水口には、大きな負荷がかかる。<br>
<br>
支払いというのは踏み絵のようなところがある。なんとなく、というわけにはいかない。支払ったら、そこで後戻りはできないし、意識するしないに関わらず、「私はこれを選択しました！」という意思表明になってしまうからだ。そこに他人の目がなくても、自分の心の目がある。大げさではなく、そういうところがある。<br>
<br>
なんとなく支払える仕組みがあるということは強い。ケータイの支払いは、実に「なんとなく」行われる。リアルなお金を目にしないということはもちろん、請求も携帯キャリアを通して行われ、通話料金にまぎれてよく見えない。さらに若い人などだと、親が通話料金を支払っていたりして、もはや完全に見えないところにある。でもPCではそうはいかない。ならば、どういう方向性があるか。<br>
<br>
基本として「Webでお金を払って楽しむことはかっこいい、先進的だ」という認識を、限定的にでも作っていくことが大切だと思う。ネットの先進ユーザーとされる人々は、技術を駆使して無料で手に入れることを良しとする場合が多い。この考え方は、課金の考え方と真っ向から対立する。いまはどうだか知らないが、ネットでもっとも検索されるワードはかつて「無料」だった。無料が良し、無料ほど偉いとされる文化と、どう折り合いをつけるか考えること無しには、ネットの課金サービスは難しいのではないか。<br>
<br>
人は、自分の誇りを傷つけるような消費をしたがらない。ネットを自由自在に使いこなし、無料で色々手に入れることを誇りと感じているような人は、少額課金であってもそれは誇りを傷つけることになる。そうなればできるだけ意識せず、その踏み絵を「なんとなく」行えるのがいいのかもしれないが、ここは技術的な問題が大きく絡む。何らかの方法で、お金を支払うということと誇りというものを接続させることが重要になってくる。このへんを前提にいくつか。<br>
<br>
まずベタだけれど、「時間の短縮」はどうだろう。「無料でも手に入れられるけれども、時間を短縮するためにお金を払う」な感じ。誇りと関連づけるならば、「私は忙しいからお金を払う→忙しい私ってエライ」である。インターネットのコンセプトのひとつは「無限」だけれど、現実の人間は無限の時間など持っていない。このあたりをテコに考える方法。この場合、膨大な時間を持っている人は無視することにはなる。<br>
<br>
もう1つは、「返金サービス」である。最初にお金は払うけれど、満足できなかったら返金します、そういうものだ。リアルな買い物では、これは一定の効果をあげたりする。この取り組みがどういう意味を持つかというと、つまり購買を最後の瞬間にしない、後戻りができる途中の段階に持って行ってしまうということだ。ただ、リアルな買い物は返品そのものが面倒だけれど、Webサービスは返品しようもないし、面倒な感じもあまりない。いずれにせよ、支払いの瞬間に訪れる「踏み絵」の重さをうやむやにして、少しでも軽くしようというというアプローチ。<br>
<br>
3つめは、時間差。いまの先進ユーザーが「無料＝先進＝カッコイイ」という考え方をずっと持ち続けると考えるならば、それを逆手に取る。コンテンツ公開の段階ではお金を取らない。速く見つけた人は無料。しかし1000人目からは段階的に有料になる。ある一定以上の人気を集めたコンテンツは、自動的に有料になる仕組み。人気のあるものを手軽に見たければお金を払えばいいだけ。技術的な問題は絡むけれど、心理的には現状のままで結構いけるのが強い。好きなアイデアだけれど、これでうまくいっているという話は聞かない。<br>
<br>
無料ユーザーと有料ユーザーの絡みを利用するという方向ではさらに、ユーザー間のパトロン制というのもあるのかもしれない。有料ユーザーの可視化はいまでも行われているけれど、彼らが支えているものを「全体」ではなくて「個人」にしてしまうという方向。有料ユーザーは、たとえば月300円で2人を養うことができる。面白い投稿をしたり、年齢は若いけど勢いのあるユーザーを2人養えば、彼らは無料で参加できる、みたいな形だ。そうなると無料ユーザーはそれなりに意味のある行動や他者貢献をしたいというモチベーションが働くかもしれないし、有料ユーザーを通してシステムの維持も考えられるという算段だ。<br>
<br>
かつて宗教ではお金持ちがたくさん寄付をしていたし（今もか）、小集団での持ちつ持たれつなお金の貸し借りもあったりした。単にサービス提供の対価として個別課金というスタイルにこだわらず色々考えれば、お金の回り方もなにか思いつくんじゃないかなと思ってたりするのだけれど、無責任だろうか。]]> 
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<title>暮らし方とメディアのあり方</title> 
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<modified>2009-07-28T15:23:22Z</modified> 
<issued>2009-07-12T01:50:03+09:00</issued> 
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<summary type="text/plain">テレビについて、面白い論考を見た。 
大画面テレビでなぜ視聴率が下がるのか？それはながら視聴が困難になるからだ。映画を見るならいい。なんか、気合いいれて見るぶんには大画面テレビはいい。でも、なんとなくつけておくには大画面テレビはうざすぎる。絶対にながら視聴...</summary> 
<dc:subject></dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51630400.html">
<![CDATA[テレビについて、面白い論考を見た。 <br>
<blockquote>大画面テレビでなぜ視聴率が下がるのか？それはながら視聴が困難になるからだ。映画を見るならいい。なんか、気合いいれて見るぶんには大画面テレビはいい。でも、なんとなくつけておくには大画面テレビはうざすぎる。絶対にながら視聴時間はへっているはずだ。ながら視聴はテレビの視聴時間の半分はこえているんじゃないか？しらないけど。<br>
（<a href="http://d.hatena.ne.jp/kawango/20090702/1246496187">テレビの視聴率がさがってきたのは大画面テレビのせいじゃないか - はてなポイント３万を使い切るまで死なない日記</a>）</blockquote><br>
たしかに、最近テレビの勢いはよくない。いろいろ、思うことはある。大画面が「ながら視聴」の邪魔をする、というのは興味深い仮説だと思う。<br>
<br>
少し前に、ネット上でのコミュニティ・サービスについて考えていた。そもそもなんでコミュニティ・サービスは流行っているんだろう。思ったのは、それがパーソナル・コンピュータであるからということ。<br>
<br>
もし、パソコンがその当初から、みんなで操作することを前提に作られていたとしたらどうだったのだろう。おそらく、その場にいる複数の人たちのコミュニケーションを活発にさせることが重要で、パソコン間＝ネット上でのコミュニケーションは二の次だっただろう。今パソコンの前には、たいてい一人しかいない。そのことが、ネット上にコミュニティサービスを作る原動力になったのかもしれない。<br>
<br>
Wiiのことも考える。Wiiは、家族のためのSNSみたいになっている。家族でできるゲームを供給し、家族のコミュニケーションを活発にさせる。別の家にあるWiiと通信することよりも、Wiiの前にいる家族同士が交流することを志向しているように見える。もしかしたらコンセプトは本当に「ファミリー・コンピューター」なのかもしれない。家族で共有できる無難なネタとして、だからスポーツや健康、学習といったゲームがメインになるのだろう。そういえば「Wiiの間」というサービスもあった。Wiiのライバルは、テレビだろう。<br>
<br>
今のゲーム機は、ほとんどが一人で操作することを前提としているように見える。はじめは、ゲームボーイあたりがそうだった。でもいまは、PS3とかの据え置き機もそれを前提としているように思える。だから、ネット、あるいは無線通信対戦ということになる。こちらのライバルはPCということになる。PCにしろ、ゲーム機にしろ、機械の前に一人しかいないなら、通信して擬似的に人を増やすしかない。<br>
<br>
新しい機器は、人の暮らし方を変化させる。けれどもそれ以前に、人の暮らし方が機器のあり方を大きく規定している。テレビが元気をなくしたとするならば、それは大ざっぱには、家族構成の変化ということになると思う。テレビは「お茶の間」と紐付いたメディアである。一人っ子が増え、子供部屋が誰にも与えられ、お茶の間が実質的に機能していかなくなるとテレビは弱くなっていく。PCやケータイが出る前は、まだそれでも子供部屋のテレビという存在意義があった。しかし「パーソナル」に特化したPCやらケータイが出てくれば、自然とその座を譲り渡すことになる。そもそもテレビは大人数のメディアだった。とくに生まれた当初は、多くの人が集まって見るものだっただろう。<br>
<br>
テレビのコンテンツも、やはり人の暮らし方から影響を受けているように思う。テレビコンテンツでいま元気があるのは「お笑い」だ。お笑いのコンテンツにはかなり特徴がある。ひとつは、コントやらネタやらというものの時間である。これらはせいぜい数分で終わる。そうすると、Youtubeなどに載せやすい。また、お笑いは比較的オールターゲットなので、見る相手の年齢や趣味に左右されたりすることが少ない。加えて、お笑いのネタは少しずつ変化しながらも、芸人の中で一貫性があって、同じセリフやモチーフが比較的長く使われる傾向がある。そうすると結果として、ネタやイメージを多くの人で共有することができる。<br>
<br>
これらのハンドリングのよさは、時間や趣味がバラバラな多くの人を束ねていくことに適している。それに比べるとドラマなどは、一回の放送が1時間近くと長く、内容によっては見る人をかなり選び、そしてシリーズ化されない限りは繰り返しが起きない。コンテンツのハンドリングという意味では厳しく、現代の人の暮らし方にあっていないのではないかというように思う。<br>
<br>
「大画面テレビ」は、なんとなくつけおくには確かに重たい。この重たさが、みんなを再度テレビの前に引き寄せるのか、あるいはそれさえ拒絶してしまうのか、そのあたりがポイントなのかもしれないなあと思う。]]> 
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<title>日経ビジネス特集「物欲消滅」が面白い</title> 
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<modified>2009-06-10T04:21:45Z</modified> 
<issued>2009-05-26T01:24:50+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:koukokugyokai.51608532</id> 
<summary type="text/plain">日経ビジネスの特集『物欲消滅―「買わない消費者」はこう攻めよ』が面白かった。購買意欲が減退しているという現状は景気が大きく影響しているのだろうけど、現実にどう各社が対処しているのか、ケーススタディがいくつかの方向性にわかれていて刺激になった。それで思った...</summary> 
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<![CDATA[日経ビジネスの特集『物欲消滅―「買わない消費者」はこう攻めよ』が面白かった。購買意欲が減退しているという現状は景気が大きく影響しているのだろうけど、現実にどう各社が対処しているのか、ケーススタディがいくつかの方向性にわかれていて刺激になった。それで思ったこと。<br>
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ひとつは、買ってもらう以前に、捨ててもらう設計というか、気持ちよく捨てられる環境作りというのがあるのかもしれないということ。すでに持ち物が多いことというものもちろんあるし、それにくわえて「買う・捨てる」という行為そのものに罪悪感が伴うようだと、やはり二の足を踏んでしまう。とはいえ解決策は、数年で飽きてしまうように商品を設計するとか、壊れやすいモノを作るとかそういう邪悪な方向ではないだろう。ひょっとしたら、リサイクル技術の発達ということかもしれないし、さらにひょっとすると途上国支援との組み合わせかもしれない。アイデアが問われると思う。<br>
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仕事でも思いを強くしているところなのだけれど、消費には今かなり「言い訳」が必要とされているのだと思う。商品選択ではなくて、消費そのものに。広告のメッセージは選択の理由づけであることが多くて（他社よりここが優れてます、とか）、そもそもの消費自体を言い訳してくれないことが多いように思う。これは広告メッセージを競合比較などから作りすぎてしまうことの問題だし、さかのぼるのであれば商品企画も他社比較ばかりで進めてしまうことに原因がある。でも今は、選択以前にモノを買うこと自体への言い訳が必要だ。これは世の中全体の消費傾向が単一でなくなってきている（三種の神器とか）ことが影響しているのだと思う。たとえ合理的でなかったとしても、というか合理的でなくたって全然問題ないのだけれど、気持ちよく買える言い訳作りはあってもいいなと感じた。<br>
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広告がらみでいうと、以前からの持論である「CM長尺論」を再確認した。記事の中で、商品レンタルを通じて購買をしてもらうビジネスが取り上げられていた。言ってみればこれは広告の敗北のようなもので、実体験をしてもらわなければ効用が実感できないということだ。とくに「いまの、自分のリアリティ」から実感として遠い商品は、レンタルでもしてもらわない限りその効用を実感できない。本当は広告でそれを伝えるべきなのだが、15秒のCMやグラフィック一枚でそれをやるのが厳しいという現状ではないかと考える。CMをやるなら、30秒以上の長尺で、その効用を理解してもらいつつ、CMコンテンツ自体を楽しんでもらえる工夫も同時に必要だと思った。<br>
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あとは、商品というのは快感を運ぶメディアだということ。人は、快感（幸福だと、ちょっと言い過ぎかも）を商品を通じて買っている。思い出したのはCDのこと。かつて音楽市場では、音楽という情報をCDというメディアを通じて手に入れていた。ところがデータそのものが直接やりとりできて、物理メディアであるCDが要らなくなると、物理メディアをかませることで成り立っていた市場が崩れてきた。それと同じようなことが起きるかもしれない。もちろん快感はまだ、データのように直接やりとりしたりコピーしたりはできない。けれどもモノを消費することを前提としない「所有から利用」への転換が進んでいく中で、所有→廃棄を前提とした仕事の回し方をすることがリスクになってきているような印象を強くした。モノを持たなくても幸せになれるなら、それはある種の理想社会なわけで、そういった社会のなかで成り立つビジネスというのもありうるかもしれないと思う。<br>
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でも、もっとも印象に残ったのは、記事内で成功したとされるいくつかのアイデアは、結果や反響の大きさが想定外のものであったことだ。必ずしも、発案者が思ったような利用のされ方をしていない。小さくてもいいから、新しい仮説を考え、試していくことが重要なのだろう。お金がないから売れないのだ、一択、はい終了ではなくて、色々模索しながら新しい消費のあり方を提案している企業はたくましいし、そこから次の時代の「消費」の姿がみえてくるのだろう。<br>
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単に不景気で話が終わらず、消費構造・社会構造にも触れていて、大きな流れがうっすらと見えてきておもしろい記事でした。おすすめ。]]> 
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<title>意味不明であることの意味</title> 
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<modified>2009-09-08T12:07:57Z</modified> 
<issued>2009-05-15T01:05:25+09:00</issued> 
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<summary type="text/plain">いい年になってくると、結婚式のおさそいが増えてくる。ジミ婚などと言われて久しいが、結婚式を挙げない人もちらほらいる。理屈っぽく考えると、「二人が愛し合ってさえいれば、結婚式などをわざわざやる意味はないではないか」という気もする。そのいっぽうで、「結婚式は...</summary> 
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<![CDATA[いい年になってくると、結婚式のおさそいが増えてくる。ジミ婚などと言われて久しいが、結婚式を挙げない人もちらほらいる。理屈っぽく考えると、「二人が愛し合ってさえいれば、結婚式などをわざわざやる意味はないではないか」という気もする。そのいっぽうで、「結婚式は二人のためにやるものではなく、家族と家族の結びつきのためにやるものである」というような意見もある。どちらにせよ、結婚式というものの意味をどうとらえるかが問題になっている。<br>
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結婚式にかぎらず儀式というのは、後戻りできない区切りの際に行われることが多い。後戻りのできない決定をおこなうときには、それなりの覚悟が必要だ。結婚式のような大きなイベントを行うことで、後戻りのできない覚悟を獲得しているという見方もできるだろう。<br>
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意志決定といえば、会社組織ではしょっちゅう意志決定が繰り返されている。小さいことならともかく、大きい意志決定となれば逆戻りができることはほとんどない。大きな決定は、大組織であれば、慎重に上申され、データの裏付けをとり、取締役会で議論された後に承認されて実行されることになっている。これは失敗の可能性を小さくするためだということになっているが、でも、正直言って儀式じゃないのかと思うこともある。儀式的な行動を繰り返したから、安心して意志決定できるという側面はないだろうか。<br>
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この儀式のプロセスに、成功確率を上げるうえで実質的にはそれほど意味がないとしても、それはそれとして必要だと思う。儀式を通過することによって、人々はもう戻れないという事実に納得し、できるだけのことはやったという覚悟を手に入れるからだ。精神状態の違いは、その後の細かい行動に影響する。意味不明でも、儀式をしたということ自体が重要なのかもしれない。<br>
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いやむしろ、儀式のプロセスに論理的な意味を持たせることは重要なのだろうか？という視点もありうる。儀式における各行動に下手に意味があると、その意味をよくする・改善しようとして論争が始まってしまうだろう。儀式は、それに参加する人たちが全員納得してこそ意味がある。儀式のプロセスに下手に口を出せない方がいいという考え方もある。儀式を「わからないものをわからないままに処理し、意志決定するための技術」だとすると、儀式それ自体もわけのわからないものの方がいいかもしれない。そういう視点でいえば、「締め切りが来てしまった＝時間切れ」というのは意志決定として優れている。<br>
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儀式の内容に意味を持たせる･･･ということでいうと下記のエントリはたいへん示唆的なのだけれど、こうなるとこのプロセスやらやり方に対して議論が生まれてしまうだろう。<br>
<blockquote>遺族感情に「怒り」もあることは間違い無いが、「犠牲者の死を感情として受け入れる」という観点で見ることも必要かと思う。死を感情として受け入れられていない状態では、赦す赦さない以前の問題である。犠牲者遺族の多くは、受け入れるための儀式として何かを必要としている。そして日本では、加害者を死刑とすることがそのための儀式として使われている。<br>
殺人犯を死刑にしても犠牲者は戻ってこないが、「犠牲者が戻ってこない」という事実を遺族が受け入れるためには死刑が必要、と考えてよいかと思う。加害者を死刑にして初めて、犠牲者が戻ってこないことを感情的にも受け入れることができ、そうしてようやく「加害者を赦そうか」という状態になれる。私はそのように推測している。（<a href="http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1777">Rauru Blog &#187; Blog Archive &#187; 葬儀としての死刑</a> ）</blockquote><br>
ところで、儀式が効果的に用いられているものというと、自分のなかでは宗教が浮かぶのだけれど、広告屋的にはお経というのも同じように気になる対象である。<br>
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お経は、ものすごく大ざっぱに言ってしまうと、悟りのためのツールということになる。だとしたら、お経は悟りのためのマニュアルであってもいいはずだ。箇条書きになっていて、悟りの条件10箇条とか、悟りのために大切な5つのこととか、イチからはじめる悟り方10段階とか、まあそういうふうに、それ自体が手引きであるほうが効率が良く思える。あるいは、悟りというのはこういう状態！と書いてしまうとか。でもそれはどうやら悪手であるらしい。<br>
<blockquote>たとえば仏教のお教はなぜあんなに意味不明なのか。お坊さんならいざしらず多くの信者はお教の意味がわかっているか。しかし必ずしも意味が重要であるわけではない。重要であるのは反復し唱えるときにつくりだされる環境である。だからお教はむしろ意味不明であるほうがよい。目的はあくまで反復にあるからだ。意味がわかりやすいと、飽きてしまう。反復しやすいようにリズミカルで意味不明であることが重要なのだ。（<a href="http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20081013#p1">なぜ現代の教育の規範は「夢をもて」なのか - pikarrrのブログ</a>）</blockquote><br>
ある種、職人の徒弟制のようだけれど、お経それ自体は何も語ってくれない。どちらかというと、「お経を唱える行為とその環境」がさきに考えられていて、そのためのツールとしてお経がある。また、上記のようにリズミカルで反復しやすいような設計だとすると、悟りのための修行を続けること自体がかんたんになることを眼目としているように見える。また、お経を唱えるということ自体のハードルは低い（読み上げるだけ）ので、より多くの人に届きやすいツールであるともいえる。<br>
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わからないことには、わからないもので戦え。わからないものを使うことで、わかるようになる環境を作れ。そういう知恵のようなものを儀式やお経からは感じる。<br>
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とはいえ、こういった儀式やお経のようなものを「意味がないからやめてしまえ」と言う人に対して、彼らはどう説得してきたのだろう。「意味がないからいいのだ」というと、なんかネタバレだし、それ自体がよくわからない説明だ。「やってみればわかる」と言うのが一番ラクだし、正しいような気がするけれども、それなりの権威がないと通じない。現代では、なかなか意味不明は生き残りにくそうだ。<br>
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時を経るにつれ、いままでわからなかったことがだんだんわかるようにはなってきている。でも、いまだにわからないなりに進めていかなければいけないことは多い。そんなときの技術として「意味不明であることの知」は、まだまだ有効な気がする。]]> 
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<title>別注というものづくり</title> 
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<modified>2009-05-07T13:59:25Z</modified> 
<issued>2009-05-06T04:46:52+09:00</issued> 
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<summary type="text/plain">90年代、エアマックスとかエアジョーダンとか、そういったスニーカーがとても流行して、社会現象にまでなったことがあった。そしてその当時、有名なスニーカーショップがナイキなどのメーカーに色・柄などの特殊な要望を入れて、オリジナルモデルをメーカーが作ることがあっ...</summary> 
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<![CDATA[90年代、エアマックスとかエアジョーダンとか、そういったスニーカーがとても流行して、社会現象にまでなったことがあった。そしてその当時、有名なスニーカーショップがナイキなどのメーカーに色・柄などの特殊な要望を入れて、オリジナルモデルをメーカーが作ることがあった。これは「別注モデル」と呼ばれていて、とても人気があった。そのショップでしか売られないという希少性だけではなくて、専門ショップならではのセンスの良さが反映されていて、これまたプレミアがついていた。都心に住んでいたわけでもない私は、当時インターネットも当然なくて、手に入らずうらやましく思っていた覚えがある。<br>
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そのあと「別注」の流れはアウトドアジャケットやバッグ、さらにそれ以外のファッションアイテムにも波及した。いまは、ビームスやシップス、アローズのほかにもたくさんセレクトショップがあって、それらショップが自分たちのセンスを生かしてメーカーに別注をかけているのを見ることがある。別注というスタイルは、世の中に定着したのだろうなと感じる。<br>
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ところでこの「別注」、あたらしいものづくりのスタイルとしてもっと発展させることはできないだろうか。というのは、この別注、メーカーオリジナルのものづくりと、消費者主導型のものづくりの中間あたりにある気がしていて、なにもファッションに限らず広げていけるんじゃないかなという印象があるからだ。<br>
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消費者主導のものづくりというのは、言うのはかんたんでも実現は難しい。消費者は必ずしも自分の欲しいものをわかりきっていないし、そもそも「何が作り得るのか」がわからないから、現実感のないものを空想してしまいがちだ。もちろん精度は高めていけるのだけれど、結局「売れなかったときの在庫リスク」というのをうまく共有できないので、無責任になってしまうこともある。メーカー側としても、本当に売れるのかわからない中で消費者に聞いてだけものづくりをするというのは役割放棄にも見えるし、どっちにせよ販売リスクを背負い込むことになる。共同購入のようなシステムもできてきているので、これからということもあり得るけれど。いっぽうで、メーカー側が頭をひねっても限界というのはある。<br>
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別注というのは、ある種消費者でもなくメーカーでもない、ただし消費者の好みを体感している存在（靴の場合はショップということになる）を挟むことで、より精度を高めるという発想だと考えられる。このスタイルが面白いと思うのは、別注元であるショップがメーカーと在庫リスクを共有しうることだ。どちらがどのくらいのリスク分担をするのか、それは場合によると思うのだけれど、その企画に自信のあるショップなら、より高いリスクを負うことができるだろう。メーカー側としても、リスクを負ってでもそのセンスを生かしたい別注元というものがあるかもしれない。<br>
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ファッション業界の外に出た場合、ショップにあたるところがどこなのかと考えるとさらに興味深い。家電は、家電量販店だろうか？たしかに量販店オリジナルモデルというのはある。食料品なら、スーパーだろうか？こちらもPB（プライベートブランド）商品というものがある。そう考えるともうすでにあるのか、で終わりだけれども、最低限の品質と可能な限りの低価格というバランス感覚以外に、あまり別注元のセンスが生かされていないのが惜しい。<br>
<br>
いま自分が考えられるのは、メーカーがメーカーに別注するというスタイルだ。ある程度明確なスタイルを持っているメーカーには、そのメーカーのファンという人たちがいる。アップルやソニーくらいに明確なブランドイメージを持つ企業なら、他のメーカーに別注をするということが可能なのではないだろうか。アップルがスニーカーを作りました、だけでは「うーむ」と思うかもしれないけれど、アップルがナイキに別注をかけて、アップル的な発想で作られたスニーカーなら面白いかもしれない。（iPod×NIKEがすでにあるけれど）<br>
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誰しも、いくつか「この発想が好きだ」と感じているブランドなりメーカーなりがあると思う。自分が興味のない別分野でモノ探しをするときに、たとえば「アップル的な立ち位置のメーカーはこの業界ではどれなんだろう？」と探っていくのは面倒くさいかもしれない。また、「アップルぽいトーンの商品はこの業界になくて残念」と思っている人がいるかもしれない。<br>
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Webによって消費者どうしはコミュニケーションがとれるようになり、消費者と企業も以前に比べてコミュニケーションを取りやすくなってきた。では、企業同士、特に異分野の企業同士はどうだろう。同じ人物をファンとして抱え合っているかもしれないのに、一緒にものをつくるという発想にならないのはなぜだろう。あるいは、自社を気に入ってくれているお客さんに、より幅広い商品を届けるという発想はないだろうか。もっというと、メーカー同士で顧客を共有するということかもしれない。<br>
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すでにもう始まっているような気がするけれど、企業間の別注からはじまるコラボレーションがより活発になっていくといいなと思う。]]> 
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<title>ポジショントークで明るい社会</title> 
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<modified>2009-05-05T05:32:02Z</modified> 
<issued>2009-05-03T01:17:07+09:00</issued> 
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<summary type="text/plain">最近、とあるニュース誌（情報誌？）の購読をやめた。記事のレベルはおそらく高かったと思うのだけれど、「その記事がどういう立ち位置の記事なのか」が、よくわからなかったからだ。読んでいて、「ふむふむなるほど。でも、この記事ってどのくらいの立ち位置なのだろう。こ...</summary> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51596861.html">
<![CDATA[最近、とあるニュース誌（情報誌？）の購読をやめた。記事のレベルはおそらく高かったと思うのだけれど、「その記事がどういう立ち位置の記事なのか」が、よくわからなかったからだ。読んでいて、「ふむふむなるほど。でも、この記事ってどのくらいの立ち位置なのだろう。これについて、みんなはなんと言っているのかな」、そんなことばかり気になってしまって、肝心の内容が吟味できなくなってしまった。<br>
<br>
ネットをちょこちょこ見る生活をはじめて10年もまだ経っていないのだけれど、強く思うのは「人は自分に都合のいい情報を集めるし、主張する」ということだ。少なくとも自分はそうだ。これはネット上では「ポジショントーク問題」ということになる。自分のいる業界やら、自分のやっている商売、自分にとって気持ちのいい情報に理屈をつけて出す、その疑いがあるという問題だ。このような問題意識は、客観的な情報が欲しいという欲求から生まれているのだと思う。<br>
<br>
でも、このポジショントーク問題、いったん疑念にとらわれてしまうと難しい事態になる。そこらの分析や記事にたいして、「これは書き手の都合のいいことを書いているだけじゃないか？」と疑い続けることになるし、自分の情報収集姿勢にも常に疑念を抱き続けなければいけない。そして、この問題にはいつも明確な答えがない。情報を出している方が謙虚で誠実になったところで、よほど厳密なデータがとれる場合を除いて、無意識でポジショントークをやっている可能性はなお残る。立場にとらわれない意見ということでは、利害関係のない第三者が書いた意見を信頼するという手があるが、ほんとうに利害関係がないのかよくわからないし、利害関係のない第三者イコール部外者であることも多くて、中にいる人ならではの重要なポイントを押さえ切れていないことも多かったりする。<br>
<br>
ネットが出始めた頃に、たしか「誰が言ったかではなく何を言ったかだ」というような言論があった。でも、言った内容だけを吟味してそれを利用できるほど、自分は知識が豊富でない。ラベルのついていない、素の言論内容だけを見せられても自分には正誤が判断できない。そもそもその判断ができるくらいのレベルなら、情報収集するまでもないのではないかとさえ言える。かくして、有名な人が出す意見が情報収集としては効率的だ、という結論に近くなってくる。なんだか一周してしまったような気がする。<br>
<br>
私はここで、ポジショントークでもいいではないか、という視点を提供したい。問題は、ポジショントークかどうかではなくて、ポジションがよくわからないまま情報が出回るということではないだろうか。冒頭にもどると、購読していたニュース誌のスタンスがわかってさえいれば、その偏り補正は受け手の私が引き受けるということである。受け手の私からすれば、複数の異なる立場から主張される、あるトピックに関する意見を眺めることで、自分の中である程度の客観性をたもつことはできるかもしれないからだ。<br>
<br>
マスコミ人でも誠実な人は、「できるだけ客観的に。不偏不党で」という理想を持っている人が多いし、それを要求する人も多い。でも、やはりそれは難しいし、違うと思う。「自分に都合が良くなりがちなのは避けられない」、これをまず認めてしまうという手はないのだろうか。そのうえで、「私はこういう風な立場なので、このように偏り得ます。そのうえで聞いてください」という姿勢は不可能なのだろうか。決して悲観的になったり、諦めてしまうのではなくて、明るく認める。そのうえで、自分の立場を明らかにする。こうすることで、受け手の側にも心の準備ができて、吟味の際の材料が増えるということはないだろうか。客観的というのは最善だけれど、それが混乱を生むならば、次善で勝負するというのはないだろうか。<br>
<br>
それは理想とは遠いのかもしれないけれど、少なくとも現実的なアプローチだとは思うし、いまよりも明るくて風通しが良くなるんじゃないかと思うのだけれども、どうなのだろう。]]> 
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<title>多様化だから一人勝ち、多様化したら全員負け</title> 
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<modified>2009-05-18T16:08:06Z</modified> 
<issued>2009-05-02T22:01:06+09:00</issued> 
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<summary type="text/plain">本当なのかどうか確かめていないけど、市場が多様化しているらしい。それと同時に、一人勝ちの商品やら、サービスやらが出てきているらしい。このふたつのことがもし傾向として真実ならば、「ものごとがバラバラになりながら同時にひとつに収束していっている」ような感覚に...</summary> 
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<![CDATA[本当なのかどうか確かめていないけど、市場が多様化しているらしい。それと同時に、一人勝ちの商品やら、サービスやらが出てきているらしい。このふたつのことがもし傾向として真実ならば、「ものごとがバラバラになりながら同時にひとつに収束していっている」ような感覚になって、どうも頭が混乱してくる。自分の中で整理するために、補助線を一本引いてみる。<br>
<br>
なにかの統計データを見るまでもなく、個々人にとって商品・サービスの選択肢は増え続けており、かつ情報ソースもたくさん得ることができるようになってきている。しかしこれはあくまで、可能性としてそうであるということだ。実際のところわたしの一日は24時間のままだし、わたしの記憶力や好奇心も急に2倍になったりはしない。ここの落差がミソなんだと思う。<br>
<br>
だれでも、自分が興味のあるいくつかの分野以外は、素人である。個人が持つ時間と能力が大きく変わらない以上、これからもずっとそのままだ。この状況のなかで、選択肢が無限に増え続けたらどうなるか？自分の興味のあることについてはさらに深く掘り下げる一方で、興味のないことについては今までと同じか、それ以上に素人になるということではないだろうか。<br>
<br>
たとえば私は、ガジェットについてはそれなりにうるさい。選択肢が増えれば、その選択肢から欲望の想像力を広げ、さらにマニアックになっていくことが予想される（あくまで、選択肢が増えるのが先だが）。その一方で、シャンプーに関してはまったくといっていいほど詳しくない。売れているもの、安いものを買うだけだ。でも、シャンプーにうるさい誰かというのもいるわけで、そういう人のためにシャンプーだってマニアックな市場が広がっていく。何かにうるさくて、それ以外のものにはうるさくない大勢の人たちを大量に掛け合わせていくと、多様化したマニアックな市場がありつつ、売れている/安い商品が一人勝ちしている市場の状況というものが現れるのだろう。<br>
<br>
私が神様で、もしこういった状況を好ましくないと思うなら、世界を分割するだろう。分割された世界にもまだ「一人勝ち」や「マニアックな市場」は存在するが、その落差は小さくなる。現実として起こっているのは、世界が分割される方向ではなく、統合される方向だけれども。<br>
<br>
受け手＝消費者側としては、それほど問題に感じないこの状況。しかし、企画側＝商品やサービスを送り出す側にとってみれば、なかなか頭の痛い問題かもしれない。わたしにとってのシャンプーのような商品は、できるだけ大量に効率よく作ってコストを圧縮するような生産体制にしつつ、わたしにとってのガジェットのような製品ではそれこそ消費者対話型の設計にして、細かいニーズに応えつつ丁寧な物作りをしていかなければならない。この二つのものづくりは体制としてかなり異なるので、どちらでいくかの見極めをしないといけないだろう。このどちらの体制にも振り切れない中途半端な商品もあるので、難しそうだ。<br>
<br>
たとえばこれからレコメンデーションの技術が発達していって、シャンプーに興味のない私にとってもそれなりに最適化された、私向きの商品（もし私がシャンプーにこだわったら選ぶであろう商品）が届くようになるのだろうか。あるいは私がシャンプーにうるさい友人に「何を使ったらいい？」と聞くような、こだわりユーザーが作るあたらしい評判市場が生まれ、こだわりユーザーと素人ユーザーをつなぐクチコミ回路が生まれるのだろうか。いまのカカクコムのようなサービスは、不完全ながらこのような姿を目指しているのかもしれない。<br>
<br>
いま気になることがあるとすれば、マニアック化していくということは、素人にとって手を出さない理由になりうるということだ。上記の例では、シャンプーという必需品を例に出したものの、これがゲームやアニメだったらどうだろう。「最近のはむずかしくてよくわからないよ」という人は、一番売れているものを買うのだろうか。そういうこともある。しかし、一番あり得る反応は、「よくわからないから手を出さない」ではないだろうか。だって素人なんだから、そんなにもともと興味がない。<br>
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多くの市場がマニアック化していくということは、その方面に強い興味がない素人にとってみれば、多くの市場がそもそも手の届く範囲外に行ってしまうということではないだろうか。<br>
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同時に、その市場に興味のあるマニアックな人にしてみれば、選択肢が増えたことに喜びつつも、素人が脱落することで同胞が少なくなっていき、市場が大きさを保てなくなって新しい商品が出なくなったり、世の中でたくさん売れている商品と自分たちの好む商品との差が量・質ともにどんどん広がっていって、フラストレーションを感じることが増えるかもしれない。<br>
<br>
多様化するから一人勝ちが生まれ、多様化していくほど全体として小さくなる構造が生まれていくのであれば、これは必ずしも喜ばしいとはいえない。補助線を引いたとおり、もともとは個々人の時間や記憶力・好奇心がそのままであることに根っこがある。これを爆発的に広げるという選択肢は、あるのかないのか。ITってそういうことにも使われるべきだし、使われていると思うけれど、もっとスピードをあげなければいけないのかもしれない。]]> 
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<title>社長と工場</title> 
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<modified>2009-03-15T00:15:43Z</modified> 
<issued>2009-01-05T21:17:17+09:00</issued> 
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<summary type="text/plain">ブログ「創造と環境」の著者であり、新刊「クルマの広告」を出された西尾忠久さんと、年末に食事をご一緒する機会をいただいた。有意義な話をたくさん聞くことができたので、いくつかをここで紹介したい。

西尾さんはコピーライターとして、DDBというアメリカの有名な広告...</summary> 
<dc:subject></dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51533394.html">
<![CDATA[ブログ<a href="http://d.hatena.ne.jp/chuukyuu/">「創造と環境」</a>の著者であり、新刊「クルマの広告」を出された西尾忠久さんと、年末に食事をご一緒する機会をいただいた。有意義な話をたくさん聞くことができたので、いくつかをここで紹介したい。<br>
<br>
西尾さんはコピーライターとして、DDBというアメリカの有名な広告会社に取材を申し込みにいったのだけれど、そこでのエピソード。DDBのバーンバックさんという人にアポイントを取りたいのだけれども、元々知り合いではないし、当時はEメールがない。そこで手紙を送るのだけれども、手紙に記念切手を貼るのがポイントだという。<br>
<blockquote>秘書というのは（多くの手紙を開封しているので）切手コレクターが多い。だから、珍しい切手を貼って送れば開封率があがるし、「この人はいい人だ」という印象を持ってもらえる。</blockquote>手紙はもちろんバーンバックさんに送っているわけだけれど、ポイントは秘書を通過できるかどうか。そこで、秘書に好感を持ってもらうための施策を考案したということだ。<br>
<br>
<br>
もうひとつ。西尾さんがアメリカに行くことになったときのことで、足袋を何サイズか持参したのだという。<br>
<blockquote>私は、住む人の生活を見ないとその地に行ったことにならないのではないかと考えている。で、どうやって他人の家にあげてもらうか。まずは、（現地で）会った人に足袋をプレゼントする。そのうえで、「奥さんの分なのだが、奥さんの足のサイズは？」と聞く。奥さんの足のサイズは普通知らない。そこで家に電話をすることになる。そこでまずコンタクトがとれる。しかも足袋は履くのに技術が必要だ。夫にはその場で履き方を教えるが、夫から奥さんへ説明するのは難しいので、奥さんが「せっかく足袋もくれたんだし、その人を家に呼びなさい」と夫に言う。それで家にあげてもらうことができる。</blockquote>うまいなあと思う。どこを突破すればいいかといいかという戦略と、そこを突破するためのアイデアが両方入っている。<br>
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<a href="http://d.hatena.ne.jp/chuukyuu/">「創造と環境」</a>および「クルマの広告」では、フォルクスワーゲンの広告が出てくる。特徴のあるビジュアルと、事実を軽妙なタッチで描いていくその作風には、変にひねった感じも、いやらしい感じもない。事実、このフォルクスワーゲンの広告群は名作とよばれて久しいものだけれども、その源泉は制作者のクリエイティビティという一言ですませばよいものだろうか。その点について、ヒントとなるのが西尾さんの仕事に対する姿勢で、そこには二つのポイントがあるという。<br>
<blockquote>仕事では、ふたつのことをお願いする。ひとつは、「社長に会わせろ」。もうひとつは、「工場を見せろ」である。</blockquote><br>
なぜ社長かというと、現場担当者レベルの場合、上司への言い訳を考えて自主規制を敷いてしまい、思い切ったことができなくなるいう問題があるからだ。社長は、変なところでNGを出したりもするが、基本的には度胸があるので、まっとうなメッセージであれば思い切ったものでも受け入れてくれることが多い。（ちなみに、ソフトバンクの広告はほとんど孫社長が直接タッチしているという）<br>
<br>
工場を見せろというのは、商品を知らずに広告は作れないということである。私もクライアント企業の内部を見せてもらうことがよくあるけれど、クライアントにとって当たり前の慣習や努力は第三者にとって非常に魅力的だったりすることがある。クライアントが考える「伝えたいこと」よりも魅力的な「伝えるべきこと」が見つかるのである。それを深いレベルで行うためには、やはり工場を見るのが手っ取り早いと思う。<br>
<br>
商品のことをきちんと見て、一番真剣に考えている人と話す。何がポイントなのかを把握して、一つのアイデアで複数の条件を串刺しにする。書いてしまえば一行で終わってしまうが、その深みが重要なのだと思った。西尾さん、そして場を設けてくださった三宅先生、ありがとうございました。<br>
<br>
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<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%BA%83%E5%91%8A%E2%80%95%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E7%B5%B5%E6%9C%AC-%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%A5%BF%E5%B0%BE-%E5%BF%A0%E4%B9%85/dp/4845408139%3FSubscriptionId%3D15JBHWP7TH9QYT1RMHG2%26tag%3DLvdrfree-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4845408139"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41Z5yRIPmNL._SL160_.jpg" alt="クルマの広告―大人のための絵本 (ロング新書)" border="0" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%BA%83%E5%91%8A%E2%80%95%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E7%B5%B5%E6%9C%AC-%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%A5%BF%E5%B0%BE-%E5%BF%A0%E4%B9%85/dp/4845408139/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1231158131&sr=8-1">クルマの広告―大人のための絵本 (ロング新書)</a><br />著者：西尾 忠久<br />販売元：ロングセラーズ<br />発売日：2008-12<br />]]> 
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<title>プレゼンとドキュメント</title> 
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<modified>2008-12-30T10:41:07Z</modified> 
<issued>2008-12-30T19:41:07+09:00</issued> 
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<summary type="text/plain">プレゼンテーションにはドキュメントが付属していることが多い。学級会での個人発表レベルならともかく、業務でプレゼンを行うということになれば、たいていの場合はドキュメントの準備を行う。

プレゼンにドキュメントが必要とされがちなのは、主にコミュニケーションと...</summary> 
<dc:subject>プレゼン手法</dc:subject>
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<![CDATA[プレゼンテーションにはドキュメントが付属していることが多い。学級会での個人発表レベルならともかく、業務でプレゼンを行うということになれば、たいていの場合はドキュメントの準備を行う。<br>
<br>
プレゼンにドキュメントが必要とされがちなのは、主にコミュニケーションとアーカイブのためだ。発表した内容は、あとで別の人間で共有して意志決定に用いられたり、のちのち参照するためにドキュメントにしていると考えられる。<br>
<br>
プレゼンの目的を、その場での説得・報告ということに絞るのであれば、ドキュメントである必要はないし、そうでないほうがいい場合さえある。「エレベーター・プレゼン」という言葉があるが、あれは（重役などが）エレベータに乗っている間に要点を言い切れるくらいのものに純化させなければいけないという話だ。<br>
<br>
プレゼンのドキュメントは放っておくとどんどん内容が増えていってしまうことがある。あれもこれも、念のためといって増えていってしまう。この意識の背景にあるのは、「もし不要ならば読み飛ばしてもらえばいいから」という考えである。もともとコミュニケーションやアーカイブのためにドキュメント化を行っているのだが、ドキュメントの読み飛ばし性が前面に出て、内容がどんどん増えてしまう。<br>
<br>
内容がむやみに増えていけば作成に手間がかかるし、後で読まされる方も重要度の選別をしながら読まなければいけないので、誰にとってもいいことはない。だったらそれこそエレベータープレゼン、口頭に限る！としてしまえばいいかというと、それではその場にいない人には内容がきちんと伝わらない。ある程度以上の規模の会社においてこのようなことを行うことは現実的ではないだろう。<br>
<br>
ドキュメントのもつコミュニケーション性やアーカイブ性を生かしながら、無意味に内容が増えてしまうことを防ぐには、ドキュメントの量を制限するというのが現実的だろう。プレゼンを受ける側から、「○○枚まで。」と区切ってしまうしかない。たいていのプレゼンは時間で区切られている（60分とか）が、Appendixなどで量が増えている例も多いので、ドキュメント自体の量を制限するほうがよい。<br>
<br>
<blockquote>社内プレゼンテーションは、A3用紙1枚にまとめるのが決まり。A3スペースに「問題定義と背景」「要因分析」「実行スケジュール」「結論」「今後の課題」などを明確に、分かりやすく書く。 <br>
（<a href="http://premium.nikkeibp.co.jp/itm/spe/37/">「昇進遅い」「給料安い」「非効率なダラ会議」の「古臭い」トヨタが成功した「本当の理由」 - bpspecial ITマネジメント</a>）</blockquote><br>
トヨタでは上記のように、A3一枚でまとめる文化があるようだ。社内プレゼンテーションでは･･･と書いてあるが、社外からのプレゼンでもA3一枚でのまとめを提出することが多い。この慣習は広めていくべきと思う。A3一枚だからといって作るのが楽になるわけではないが、無駄は減る。ドキュメントの持つべき役割とそれが持つ罠をうまく処理していると思う。]]> 
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<title>一億総表現社会に期待する</title> 
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<modified>2009-01-11T19:14:39Z</modified> 
<issued>2008-12-28T21:37:56+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:koukokugyokai.51528939</id> 
<summary type="text/plain">昔から、そして今も、コンテンツの収益化というのは難しい問題であるとおもう。ちょっと前まではCDとか、新聞紙とかいった物理的制限のあるモノを経由させることでお金をとる仕組みがあったけれど、データだけでやりとりするようになれば、コピーし放題、どうやってお金を取...</summary> 
<dc:subject>完全な雑談</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51528939.html">
<![CDATA[昔から、そして今も、コンテンツの収益化というのは難しい問題であるとおもう。ちょっと前まではCDとか、新聞紙とかいった物理的制限のあるモノを経由させることでお金をとる仕組みがあったけれど、データだけでやりとりするようになれば、コピーし放題、どうやってお金を取るのかも結構難しくなってきている。<br>
<br>
そういったお金の取り方とは別に、コンテンツというものをどうやって評価すればいいのか、という問題もあったりする。コンテンツは消費してみないと評価し得ないうえに、ひとりひとりの時間は限られているので、そうかんたんに市場で評価すればいいというわけにもいかない。このまえ雑誌編集をやっている人と飲んだら、「煽った内容なんて本当はやりたくないが、そうしないと全然売れなくなってしまう」と愚痴をこぼしていた。<br>
<br>
テレビには視聴率という評価基準がある。どれだけ多くの人が見たかという数値ということになっている。テレビマンはこの視聴率を効率よく高めることを目指すだろう。しかし、その結果、安直な、同じような番組が繰り返されるという批判もある。ハリウッド映画で続編ばっかり出てきてしまうのはこういった効率よい運営の結果だと思われる。批判はあるけれども、制作者側もくだらないものを作りたいと思っているわけではない。評価基準に忠実なだけだ。<br>
<br>
なにがいいコンテンツなのかという正解がないなかで、コンテンツをみんなにとって納得のいく方法で評価する方法はないものだろうか。何かヒントがほしい。<br>
<br>
Googleのページランクは、論文の引用回数にヒントを得ていると聞いたことがある。Googleでは、基本的にリンクの量と質で評価をつけている。単純な被リンク数に加え、リンクをたくさんされている＝評価の高いサイトからリンクされることが大きなプラスになる。これはいわゆる視聴率方式とはちょっと違う。視聴率方式でそのまま考えるなら、各サイト（ページ）の閲覧回数＝ページビューで測るはずだ。<br>
<br>
閲覧回数（ページビュー）ではなく、リンクによって評価されるとはいったいどういうことなのか。閲覧回数を、いま視聴率と同じものだとすると、リンクはどういう意味を持つのだろう。<br>
<br>
ここで注目したいのは、ウェブにおいては、閲覧する人種と、リンクをする人種はちょっと違うということだ。ウェブにおいて、リンクを貼る人というのは、元コンテンツを見ただけではなく、少なくとも何かを書く人である。画面を眺めている＝閲覧者であるだけではリンクを貼れない。ブログでも何でもいいけれど、自分の持っているサイトに何か書かないといけない。あたり前の話だ。<br>
<br>
つまり、大ざっぱに言うと、閲覧回数でなくリンクで評価するというのは、こういうことではないか。読み手ではなく、書き手による評価を信用する。そして、読み手ではなく書き手による評価を重視するというのは、考えてみれば理にかなっている制度だ。<br>
<br>
だいたいにおいて、人気による評価を基準にコンテンツを試聴するような人は、別にそのコンテンツを評価したくて試聴しているわけではないし、そもそも評価基準がわからないから人気に頼っているのである。なにも無理して、評価する気のない人の視聴行動を評価基準にする＝販売数・試聴数・閲覧数による評価をする必要がない。（もちろん、コミュニケーションの肴としてのコンテンツということであれば、「みんなが見ているアレ」にはそれだけで価値がある）<br>
<br>
一億総表現社会という言葉がある。<br>
ウェブサイト経由での発信という意味では、一億総表現にはなりそうもないし、なる必要もないと思う。しかし、少なくとも今まで発信者が10人くらいだったとすると、それは100人くらいになったのではないだろうか。増えた90人は、今までどおりユーザーでもあるが、新たに生まれたメイカーでもある。急に増えたその90人、仮にいまそれをブロガーと限定してしまうと、ブロガーの可能性は彼らの書くブログそれ自体よりもむしろ、メイカーとしてのコンテンツ評価力にあるのではないだろうか。調べたわけではないのでなんともいえないけれど、大まかに言って、ブロガーは（他人の）ブログをよく読む。そして、当然ながら書く。読む目と、書く目を持っている。<br>
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ケータイ小説が受け入れられた理由がよくわからなかった。先日、地下鉄の中で、（たまたま）ケータイを持って立っている女性を後ろから眺めていた。彼女は、メールを書いたり読んだりしていたが、ケータイ小説も読んでいた。後ろから見ていると、その行為は同じように見えた。ケータイ小説の市場は、メールの延長上－個々のユーザーが書くメールが長くなったものであり、メールを書いている人はその延長としてのケータイ小説を受け入れているのではないだろうか。<br>
いささか無謀にも推測してしまうと、携帯メールを読むこととケータイ小説を読むことは非常に近く、携帯メールを書く/読む経験に長けていればいるほど、その延長としてのケータイ小説のよきユーザーになるのではないのだろうか。<br>
<br>
私は小説をほぼまったく読まないが、作家さんのブログは好きだ。優れた書き手がもつ、独特の評価眼に強く惹かれる。同様に、デザイナーのブログも好きだ。彼らは優秀なつくり手であると同時に、優秀な評価者でもある。<br>
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一億総表現社会はたぶん来ない。しかし、一千万総表現社会くらいならなんとかなるだろう。そのときに、その一千万の人が持つ「つくり手としての評価の眼」に、コンテンツ評価の未来がかかっているのかもしれない。<br>
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プロのコンテンツメイカーは、これから苦しくなるだろう。しかし、目の肥えた評価者が増えるという解釈が可能ならば、あるいは希望が持てるのではないだろうか。]]> 
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<title>シンプルのこころ</title> 
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<modified>2008-12-19T07:22:00Z</modified> 
<issued>2008-12-13T04:31:07+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2009:koukokugyokai.51520577</id> 
<summary type="text/plain">たとえば飲み会を開くことになったとする。お店選びはどうしよう。攻める必要はないが、失敗は避けたいお店選び。白木屋や和民ではありがちで芸がない、しかしそんなにがんばる必要はない。
なら、際コーポレーションやグローバルダイニングが運営している店舗にいけばいい...</summary> 
<dc:subject>マーケティング戦略系</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51520577.html">
<![CDATA[たとえば飲み会を開くことになったとする。お店選びはどうしよう。攻める必要はないが、失敗は避けたいお店選び。白木屋や和民ではありがちで芸がない、しかしそんなにがんばる必要はない。<br>
なら、<a href="http://www.kiwa-group.co.jp/">際コーポレーション</a>や<a href="http://www.global-dining.com/">グローバルダイニング</a>が運営している店舗にいけばいい。ある程度の規模があり、安心できる。それでいて、同じ店はそれほどないのでそれなりの希少性を楽しむこともできる。<br>
恵比寿なら、<a href="http://www.foodscope.com/index.html">foodscope</a>、<a href="http://japanchickenfoodservice.co.jp/top.htm">ジャパンチキンフードサービス</a>。カフェなら、<a href="http://www.renovationplanning.co.jp/">renovation planning</a>あたりを狙えばいい。<br>
<br>
運営は同じ会社なのに、名前が違うお店がたくさんある。統一するどころか、違うお店がどんどん増えていく。シンプルじゃなくて、店舗運営はさぞかし面倒だろう。<br>
<br>
相変わらずユニクロが好調だ。やっぱり安いことがいいのだろうか。でも、ジーンズメイトだって十分安い。<br>
そういえばユニクロの服には、他の洋服ブランドと比べて柄が少ない。飾りも少ない。シンプルさがよいのだろうか。<br>
<br>
シンプルといえば、アップルだ。デザインにおけるシンプルさはアップルの特徴のひとつになっていると思う。でも、なぜシンプルなのだろう。本当にシンプルが偉いなら、競合他社はなぜシンプルにしないんだろう？部長や社長が許してくれないんだろうか？ところで、みんなシンプルになれば解決するんだろうか。<br>
<br>
シンプルさってなんだろう。シンプルは大切だって言われる。でも、複雑にして成功していることもある。本当に「シンプルにしろ！」と唱えていればいいのだろうか？シンプルのこころってなんだろう。<br>
<br>
そういえば、ユニクロはシンプルだけれど、色はたくさんある。シンプルとだけ言うのなら、白と黒くらいで他にはいらない。なのに、びっくりするくらいのカラーバリエーションがある。<br>
確かにiPodはシンプルだけれど、最近色も形も増えて、必ずしもラインアップはシンプルとはいえない。アップルは間違った方向に進んでいるのだろうか。<br>
誰もが「顧客は多様化している」なんていう。だから、商品も多様化しないといけないと。ユニクロもアップルも、これからどんどん多様化していくのだろうか。<br>
<br>
シンプルのこころは、単に要素を減らすということではたぶんない。気持ちよく選べる程度の数にするということだ。お客さんがわからないことなら、ひとつだけ提供する。すでにわかっていることなら、選べるだけ提供する。要は、ものがシンプルなのではなくて、選ぶ側の気持ちがシンプルになるようにするということだ。<br>
<br>
お客さんは、服の柄や飾りを選ぶのが難しいと感じている。でも、色だったら好きなものを選べばいい。選ぶ側の気持ちがシンプルになるためには、色を増やすけど柄は増やさない。<br>
iPodは、さすがにみんな知るようになってきた。買うときの色、入れる曲数なら選べる。でも、はじめて操作する人にとっては、ボタンがたくさんあるのは敬遠したい。色とタイプは増やしていいけど、ボタンは増やせない。それがシンプルのこころ。<br>
<br>
どこで聞いたか忘れたけれど、iPodのスクロールホイールは、学習効果を期待しているらしい。見慣れない形だが、さわっている間にユーザーが学習すると。<br>
とはいえ世の中には、見慣れない、見た目によくわからないインタフェースがたくさんある。後付けの理屈でないとすれば、スクロールホイールだけなぜ「ユーザーが学習する」と言い切れるのだろうか。おそらくポイントは、一度にやることはシンプルで、シンプルな操作を重ねながら学習できるところにある。<br>
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スーパーマリオで感動した話。ゲームが始まると、マリオは左端にいる。だから右に行くしかない。右に行くとクリボーが寄ってくる。そして頭上にブロックがある。飛ぶしかない。これも、一つ一つのシンプルな動作を重ねていくことで、ユーザーが学習できる設計になっている。シンプルから、複雑へ渡る橋が用意されている。<br>
<br>
わかっていることなら、選べるだけ提供する。わからないことなら、ひとつだけ提供する。ひとつだけ選んでもらったら、またひとつ、選んでもらう。その組み合わせで、学習してもらう。結果、複雑にならざるを得ないとしても、一度にやることはひとつだけ。ユーザーも市場も、最初はわからない、選べないけれど、ひとつひとつ学習する。<br>
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わからない、わかっている、わかるようになる。それを見据えた上で、色も、操作も増やしていく。選ぶ側の気持ちがシンプルになるように。<br>
シンプルのこころは潔さでもストイックさでも、美しさでもない、やさしさにあるのかもしれない。]]> 
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