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<title>広告β</title>
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<description>ﾀﾀﾞ ｲﾏ ｼﾞ ｯｹﾝ ﾁｭｳ
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 <title>広告β</title>
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<title>日経ビジネス特集「物欲消滅」が面白い</title>
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<description>日経ビジネスの特集『物欲消滅―「買わない消費者」はこう攻めよ』が面白かった。購買意欲が減退しているという現状は景気が大きく影響しているのだろうけど、現実にどう各社が対処しているのか、ケーススタディがいくつかの方向性にわかれていて刺激になった。それで思った...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2009-05-26T01:24:50+09:00</dc:date>
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<content:encoded><![CDATA[日経ビジネスの特集『物欲消滅―「買わない消費者」はこう攻めよ』が面白かった。購買意欲が減退しているという現状は景気が大きく影響しているのだろうけど、現実にどう各社が対処しているのか、ケーススタディがいくつかの方向性にわかれていて刺激になった。それで思ったこと。<br>
<br>
ひとつは、買ってもらう以前に、捨ててもらう設計というか、気持ちよく捨てられる環境作りというのがあるのかもしれないということ。すでに持ち物が多いことというものもちろんあるし、それにくわえて「買う・捨てる」という行為そのものに罪悪感が伴うようだと、やはり二の足を踏んでしまう。とはいえ解決策は、数年で飽きてしまうように商品を設計するとか、壊れやすいモノを作るとかそういう邪悪な方向ではないだろう。ひょっとしたら、リサイクル技術の発達ということかもしれないし、さらにひょっとすると途上国支援との組み合わせかもしれない。アイデアが問われると思う。<br>
<br>
仕事でも思いを強くしているところなのだけれど、消費には今かなり「言い訳」が必要とされているのだと思う。商品選択ではなくて、消費そのものに。広告のメッセージは選択の理由づけであることが多くて（他社よりここが優れてます、とか）、そもそもの消費自体を言い訳してくれないことが多いように思う。これは広告メッセージを競合比較などから作りすぎてしまうことの問題だし、さかのぼるのであれば商品企画も他社比較ばかりで進めてしまうことに原因がある。でも今は、選択以前にモノを買うこと自体への言い訳が必要だ。これは世の中全体の消費傾向が単一でなくなってきている（三種の神器とか）ことが影響しているのだと思う。たとえ合理的でなかったとしても、というか合理的でなくたって全然問題ないのだけれど、気持ちよく買える言い訳作りはあってもいいなと感じた。<br>
<br>
広告がらみでいうと、以前からの持論である「CM長尺論」を再確認した。記事の中で、商品レンタルを通じて購買をしてもらうビジネスが取り上げられていた。言ってみればこれは広告の敗北のようなもので、実体験をしてもらわなければ効用が実感できないということだ。とくに「いまの、自分のリアリティ」から実感として遠い商品は、レンタルでもしてもらわない限りその効用を実感できない。本当は広告でそれを伝えるべきなのだが、15秒のCMやグラフィック一枚でそれをやるのが厳しいという現状ではないかと考える。CMをやるなら、30秒以上の長尺で、その効用を理解してもらいつつ、CMコンテンツ自体を楽しんでもらえる工夫も同時に必要だと思った。<br>
<br>
あとは、商品というのは快感を運ぶメディアだということ。人は、快感（幸福だと、ちょっと言い過ぎかも）を商品を通じて買っている。思い出したのはCDのこと。かつて音楽市場では、音楽という情報をCDというメディアを通じて手に入れていた。ところがデータそのものが直接やりとりできて、物理メディアであるCDが要らなくなると、物理メディアをかませることで成り立っていた市場が崩れてきた。それと同じようなことが起きるかもしれない。もちろん快感はまだ、データのように直接やりとりしたりコピーしたりはできない。けれどもモノを消費することを前提としない「所有から利用」への転換が進んでいく中で、所有→廃棄を前提とした仕事の回し方をすることがリスクになってきているような印象を強くした。モノを持たなくても幸せになれるなら、それはある種の理想社会なわけで、そういった社会のなかで成り立つビジネスというのもありうるかもしれないと思う。<br>
<br>
でも、もっとも印象に残ったのは、記事内で成功したとされるいくつかのアイデアは、結果や反響の大きさが想定外のものであったことだ。必ずしも、発案者が思ったような利用のされ方をしていない。小さくてもいいから、新しい仮説を考え、試していくことが重要なのだろう。お金がないから売れないのだ、一択、はい終了ではなくて、色々模索しながら新しい消費のあり方を提案している企業はたくましいし、そこから次の時代の「消費」の姿がみえてくるのだろう。<br>
<br>
単に不景気で話が終わらず、消費構造・社会構造にも触れていて、大きな流れがうっすらと見えてきておもしろい記事でした。おすすめ。]]>
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<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51603145.html">
<title>意味不明であることの意味</title>
<link>http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51603145.html</link>
<description>いい年になってくると、結婚式のおさそいが増えてくる。ジミ婚などと言われて久しいが、結婚式を挙げない人もちらほらいる。理屈っぽく考えると、「二人が愛し合ってさえいれば、結婚式などをわざわざやる意味はないではないか」という気もする。そのいっぽうで、「結婚式は...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2009-05-15T01:05:25+09:00</dc:date>
<dc:subject></dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[いい年になってくると、結婚式のおさそいが増えてくる。ジミ婚などと言われて久しいが、結婚式を挙げない人もちらほらいる。理屈っぽく考えると、「二人が愛し合ってさえいれば、結婚式などをわざわざやる意味はないではないか」という気もする。そのいっぽうで、「結婚式は二人のためにやるものではなく、家族と家族の結びつきのためにやるものである」というような意見もある。どちらにせよ、結婚式というものの意味をどうとらえるかが問題になっている。<br>
<br>
結婚式にかぎらず儀式というのは、後戻りできない区切りの際に行われることが多い。後戻りのできない決定をおこなうときには、それなりの覚悟が必要だ。結婚式のような大きなイベントを行うことで、後戻りのできない覚悟を獲得しているという見方もできるだろう。<br>
<br>
意志決定といえば、会社組織ではしょっちゅう意志決定が繰り返されている。小さいことならともかく、大きい意志決定となれば逆戻りができることはほとんどない。大きな決定は、大組織であれば、慎重に上申され、データの裏付けをとり、取締役会で議論された後に承認されて実行されることになっている。これは失敗の可能性を小さくするためだということになっているが、でも、正直言って儀式じゃないのかと思うこともある。儀式的な行動を繰り返したから、安心して意志決定できるという側面はないだろうか。<br>
<br>
この儀式のプロセスに、成功確率を上げるうえで実質的にはそれほど意味がないとしても、それはそれとして必要だと思う。儀式を通過することによって、人々はもう戻れないという事実に納得し、できるだけのことはやったという覚悟を手に入れるからだ。精神状態の違いは、その後の細かい行動に影響する。意味不明でも、儀式をしたということ自体が重要なのかもしれない。<br>
<br>
いやむしろ、儀式のプロセスに論理的な意味を持たせることは重要なのだろうか？という視点もありうる。儀式における各行動に下手に意味があると、その意味をよくする・改善しようとして論争が始まってしまうだろう。儀式は、それに参加する人たちが全員納得してこそ意味がある。儀式のプロセスに下手に口を出せない方がいいという考え方もある。儀式を「わからないものをわからないままに処理し、意志決定するための技術」だとすると、儀式それ自体もわけのわからないものの方がいいかもしれない。そういう視点でいえば、「締め切りが来てしまった＝時間切れ」というのは意志決定として優れている。<br>
<br>
儀式の内容に意味を持たせる･･･ということでいうと下記のエントリはたいへん示唆的なのだけれど、こうなるとこのプロセスやらやり方に対して議論が生まれてしまうだろう。<br>
<blockquote>遺族感情に「怒り」もあることは間違い無いが、「犠牲者の死を感情として受け入れる」という観点で見ることも必要かと思う。死を感情として受け入れられていない状態では、赦す赦さない以前の問題である。犠牲者遺族の多くは、受け入れるための儀式として何かを必要としている。そして日本では、加害者を死刑とすることがそのための儀式として使われている。<br>
殺人犯を死刑にしても犠牲者は戻ってこないが、「犠牲者が戻ってこない」という事実を遺族が受け入れるためには死刑が必要、と考えてよいかと思う。加害者を死刑にして初めて、犠牲者が戻ってこないことを感情的にも受け入れることができ、そうしてようやく「加害者を赦そうか」という状態になれる。私はそのように推測している。（<a href="http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1777">Rauru Blog &#187; Blog Archive &#187; 葬儀としての死刑</a> ）</blockquote><br>
ところで、儀式が効果的に用いられているものというと、自分のなかでは宗教が浮かぶのだけれど、広告屋的にはお経というのも同じように気になる対象である。<br>
<br>
お経は、ものすごく大ざっぱに言ってしまうと、悟りのためのツールということになる。だとしたら、お経は悟りのためのマニュアルであってもいいはずだ。箇条書きになっていて、悟りの条件10箇条とか、悟りのために大切な5つのこととか、イチからはじめる悟り方10段階とか、まあそういうふうに、それ自体が手引きであるほうが効率が良く思える。あるいは、悟りというのはこういう状態！と書いてしまうとか。でもそれはどうやら悪手であるらしい。<br>
<blockquote>たとえば仏教のお教はなぜあんなに意味不明なのか。お坊さんならいざしらず多くの信者はお教の意味がわかっているか。しかし必ずしも意味が重要であるわけではない。重要であるのは反復し唱えるときにつくりだされる環境である。だからお教はむしろ意味不明であるほうがよい。目的はあくまで反復にあるからだ。意味がわかりやすいと、飽きてしまう。反復しやすいようにリズミカルで意味不明であることが重要なのだ。（<a href="http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20081013#p1">なぜ現代の教育の規範は「夢をもて」なのか - pikarrrのブログ</a>）</blockquote><br>
ある種、職人の徒弟制のようだけれど、お経それ自体は何も語ってくれない。どちらかというと、「お経を唱える行為とその環境」がさきに考えられていて、そのためのツールとしてお経がある。また、上記のようにリズミカルで反復しやすいような設計だとすると、悟りのための修行を続けること自体がかんたんになることを眼目としているように見える。また、お経を唱えるということ自体のハードルは低い（読み上げるだけ）ので、より多くの人に届きやすいツールであるともいえる。<br>
<br>
わからないことには、わからないもので戦え。わからないものを使うことで、わかるようになる環境を作れ。そういう知恵のようなものを儀式やお経からは感じる。<br>
<br>
とはいえ、こういった儀式やお経のようなものを「意味がないからやめてしまえ」と言う人に対して、彼らはどう説得してきたのだろう。「意味がないからいいのだ」というと、なんかネタバレだし、それ自体がよくわからない説明だ。「やってみればわかる」と言うのが一番ラクだし、正しいような気がするけれども、それなりの権威がないと通じない。現代では、なかなか意味不明は生き残りにくそうだ。<br>
<br>
時を経るにつれ、いままでわからなかったことがだんだんわかるようにはなってきている。でも、いまだにわからないなりに進めていかなければいけないことは多い。そんなときの技術として「意味不明であることの知」は、まだまだ有効な気がする。]]>
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</item>
<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51598472.html">
<title>別注というものづくり</title>
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<description>90年代、エアマックスとかエアジョーダンとか、そういったスニーカーがとても流行して、社会現象にまでなったことがあった。そしてその当時、有名なスニーカーショップがナイキなどのメーカーに色・柄などの特殊な要望を入れて、オリジナルモデルをメーカーが作ることがあっ...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2009-05-06T04:46:52+09:00</dc:date>
<dc:subject></dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[90年代、エアマックスとかエアジョーダンとか、そういったスニーカーがとても流行して、社会現象にまでなったことがあった。そしてその当時、有名なスニーカーショップがナイキなどのメーカーに色・柄などの特殊な要望を入れて、オリジナルモデルをメーカーが作ることがあった。これは「別注モデル」と呼ばれていて、とても人気があった。そのショップでしか売られないという希少性だけではなくて、専門ショップならではのセンスの良さが反映されていて、これまたプレミアがついていた。都心に住んでいたわけでもない私は、当時インターネットも当然なくて、手に入らずうらやましく思っていた覚えがある。<br>
<br>
そのあと「別注」の流れはアウトドアジャケットやバッグ、さらにそれ以外のファッションアイテムにも波及した。いまは、ビームスやシップス、アローズのほかにもたくさんセレクトショップがあって、それらショップが自分たちのセンスを生かしてメーカーに別注をかけているのを見ることがある。別注というスタイルは、世の中に定着したのだろうなと感じる。<br>
<br>
ところでこの「別注」、あたらしいものづくりのスタイルとしてもっと発展させることはできないだろうか。というのは、この別注、メーカーオリジナルのものづくりと、消費者主導型のものづくりの中間あたりにある気がしていて、なにもファッションに限らず広げていけるんじゃないかなという印象があるからだ。<br>
<br>
消費者主導のものづくりというのは、言うのはかんたんでも実現は難しい。消費者は必ずしも自分の欲しいものをわかりきっていないし、そもそも「何が作り得るのか」がわからないから、現実感のないものを空想してしまいがちだ。もちろん精度は高めていけるのだけれど、結局「売れなかったときの在庫リスク」というのをうまく共有できないので、無責任になってしまうこともある。メーカー側としても、本当に売れるのかわからない中で消費者に聞いてだけものづくりをするというのは役割放棄にも見えるし、どっちにせよ販売リスクを背負い込むことになる。共同購入のようなシステムもできてきているので、これからということもあり得るけれど。いっぽうで、メーカー側が頭をひねっても限界というのはある。<br>
<br>
別注というのは、ある種消費者でもなくメーカーでもない、ただし消費者の好みを体感している存在（靴の場合はショップということになる）を挟むことで、より精度を高めるという発想だと考えられる。このスタイルが面白いと思うのは、別注元であるショップがメーカーと在庫リスクを共有しうることだ。どちらがどのくらいのリスク分担をするのか、それは場合によると思うのだけれど、その企画に自信のあるショップなら、より高いリスクを負うことができるだろう。メーカー側としても、リスクを負ってでもそのセンスを生かしたい別注元というものがあるかもしれない。<br>
<br>
ファッション業界の外に出た場合、ショップにあたるところがどこなのかと考えるとさらに興味深い。家電は、家電量販店だろうか？たしかに量販店オリジナルモデルというのはある。食料品なら、スーパーだろうか？こちらもPB（プライベートブランド）商品というものがある。そう考えるともうすでにあるのか、で終わりだけれども、最低限の品質と可能な限りの低価格というバランス感覚以外に、あまり別注元のセンスが生かされていないのが惜しい。<br>
<br>
いま自分が考えられるのは、メーカーがメーカーに別注するというスタイルだ。ある程度明確なスタイルを持っているメーカーには、そのメーカーのファンという人たちがいる。アップルやソニーくらいに明確なブランドイメージを持つ企業なら、他のメーカーに別注をするということが可能なのではないだろうか。アップルがスニーカーを作りました、だけでは「うーむ」と思うかもしれないけれど、アップルがナイキに別注をかけて、アップル的な発想で作られたスニーカーなら面白いかもしれない。（iPod×NIKEがすでにあるけれど）<br>
<br>
誰しも、いくつか「この発想が好きだ」と感じているブランドなりメーカーなりがあると思う。自分が興味のない別分野でモノ探しをするときに、たとえば「アップル的な立ち位置のメーカーはこの業界ではどれなんだろう？」と探っていくのは面倒くさいかもしれない。また、「アップルぽいトーンの商品はこの業界になくて残念」と思っている人がいるかもしれない。<br>
<br>
Webによって消費者どうしはコミュニケーションがとれるようになり、消費者と企業も以前に比べてコミュニケーションを取りやすくなってきた。では、企業同士、特に異分野の企業同士はどうだろう。同じ人物をファンとして抱え合っているかもしれないのに、一緒にものをつくるという発想にならないのはなぜだろう。あるいは、自社を気に入ってくれているお客さんに、より幅広い商品を届けるという発想はないだろうか。もっというと、メーカー同士で顧客を共有するということかもしれない。<br>
<br>
すでにもう始まっているような気がするけれど、企業間の別注からはじまるコラボレーションがより活発になっていくといいなと思う。]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51596861.html">
<title>ポジショントークで明るい社会</title>
<link>http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51596861.html</link>
<description>最近、とあるニュース誌（情報誌？）の購読をやめた。記事のレベルはおそらく高かったと思うのだけれど、「その記事がどういう立ち位置の記事なのか」が、よくわからなかったからだ。読んでいて、「ふむふむなるほど。でも、この記事ってどのくらいの立ち位置なのだろう。こ...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2009-05-03T01:17:07+09:00</dc:date>
<dc:subject></dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[最近、とあるニュース誌（情報誌？）の購読をやめた。記事のレベルはおそらく高かったと思うのだけれど、「その記事がどういう立ち位置の記事なのか」が、よくわからなかったからだ。読んでいて、「ふむふむなるほど。でも、この記事ってどのくらいの立ち位置なのだろう。これについて、みんなはなんと言っているのかな」、そんなことばかり気になってしまって、肝心の内容が吟味できなくなってしまった。<br>
<br>
ネットをちょこちょこ見る生活をはじめて10年もまだ経っていないのだけれど、強く思うのは「人は自分に都合のいい情報を集めるし、主張する」ということだ。少なくとも自分はそうだ。これはネット上では「ポジショントーク問題」ということになる。自分のいる業界やら、自分のやっている商売、自分にとって気持ちのいい情報に理屈をつけて出す、その疑いがあるという問題だ。このような問題意識は、客観的な情報が欲しいという欲求から生まれているのだと思う。<br>
<br>
でも、このポジショントーク問題、いったん疑念にとらわれてしまうと難しい事態になる。そこらの分析や記事にたいして、「これは書き手の都合のいいことを書いているだけじゃないか？」と疑い続けることになるし、自分の情報収集姿勢にも常に疑念を抱き続けなければいけない。そして、この問題にはいつも明確な答えがない。情報を出している方が謙虚で誠実になったところで、よほど厳密なデータがとれる場合を除いて、無意識でポジショントークをやっている可能性はなお残る。立場にとらわれない意見ということでは、利害関係のない第三者が書いた意見を信頼するという手があるが、ほんとうに利害関係がないのかよくわからないし、利害関係のない第三者イコール部外者であることも多くて、中にいる人ならではの重要なポイントを押さえ切れていないことも多かったりする。<br>
<br>
ネットが出始めた頃に、たしか「誰が言ったかではなく何を言ったかだ」というような言論があった。でも、言った内容だけを吟味してそれを利用できるほど、自分は知識が豊富でない。ラベルのついていない、素の言論内容だけを見せられても自分には正誤が判断できない。そもそもその判断ができるくらいのレベルなら、情報収集するまでもないのではないかとさえ言える。かくして、有名な人が出す意見が情報収集としては効率的だ、という結論に近くなってくる。なんだか一周してしまったような気がする。<br>
<br>
私はここで、ポジショントークでもいいではないか、という視点を提供したい。問題は、ポジショントークかどうかではなくて、ポジションがよくわからないまま情報が出回るということではないだろうか。冒頭にもどると、購読していたニュース誌のスタンスがわかってさえいれば、その偏り補正は受け手の私が引き受けるということである。受け手の私からすれば、複数の異なる立場から主張される、あるトピックに関する意見を眺めることで、自分の中である程度の客観性をたもつことはできるかもしれないからだ。<br>
<br>
マスコミ人でも誠実な人は、「できるだけ客観的に。不偏不党で」という理想を持っている人が多いし、それを要求する人も多い。でも、やはりそれは難しいし、違うと思う。「自分に都合が良くなりがちなのは避けられない」、これをまず認めてしまうという手はないのだろうか。そのうえで、「私はこういう風な立場なので、このように偏り得ます。そのうえで聞いてください」という姿勢は不可能なのだろうか。決して悲観的になったり、諦めてしまうのではなくて、明るく認める。そのうえで、自分の立場を明らかにする。こうすることで、受け手の側にも心の準備ができて、吟味の際の材料が増えるということはないだろうか。客観的というのは最善だけれど、それが混乱を生むならば、次善で勝負するというのはないだろうか。<br>
<br>
それは理想とは遠いのかもしれないけれど、少なくとも現実的なアプローチだとは思うし、いまよりも明るくて風通しが良くなるんじゃないかと思うのだけれども、どうなのだろう。]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51596785.html">
<title>多様化だから一人勝ち、多様化したら全員負け</title>
<link>http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51596785.html</link>
<description>本当なのかどうか確かめていないけど、市場が多様化しているらしい。それと同時に、一人勝ちの商品やら、サービスやらが出てきているらしい。このふたつのことがもし傾向として真実ならば、「ものごとがバラバラになりながら同時にひとつに収束していっている」ような感覚に...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2009-05-02T22:01:06+09:00</dc:date>
<dc:subject></dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[本当なのかどうか確かめていないけど、市場が多様化しているらしい。それと同時に、一人勝ちの商品やら、サービスやらが出てきているらしい。このふたつのことがもし傾向として真実ならば、「ものごとがバラバラになりながら同時にひとつに収束していっている」ような感覚になって、どうも頭が混乱してくる。自分の中で整理するために、補助線を一本引いてみる。<br>
<br>
なにかの統計データを見るまでもなく、個々人にとって商品・サービスの選択肢は増え続けており、かつ情報ソースもたくさん得ることができるようになってきている。しかしこれはあくまで、可能性としてそうであるということだ。実際のところわたしの一日は24時間のままだし、わたしの記憶力や好奇心も急に2倍になったりはしない。ここの落差がミソなんだと思う。<br>
<br>
だれでも、自分が興味のあるいくつかの分野以外は、素人である。個人が持つ時間と能力が大きく変わらない以上、これからもずっとそのままだ。この状況のなかで、選択肢が無限に増え続けたらどうなるか？自分の興味のあることについてはさらに深く掘り下げる一方で、興味のないことについては今までと同じか、それ以上に素人になるということではないだろうか。<br>
<br>
たとえば私は、ガジェットについてはそれなりにうるさい。選択肢が増えれば、その選択肢から欲望の想像力を広げ、さらにマニアックになっていくことが予想される（あくまで、選択肢が増えるのが先だが）。その一方で、シャンプーに関してはまったくといっていいほど詳しくない。売れているもの、安いものを買うだけだ。でも、シャンプーにうるさい誰かというのもいるわけで、そういう人のためにシャンプーだってマニアックな市場が広がっていく。何かにうるさくて、それ以外のものにはうるさくない大勢の人たちを大量に掛け合わせていくと、多様化したマニアックな市場がありつつ、売れている/安い商品が一人勝ちしている市場の状況というものが現れるのだろう。<br>
<br>
私が神様で、もしこういった状況を好ましくないと思うなら、世界を分割するだろう。分割された世界にもまだ「一人勝ち」や「マニアックな市場」は存在するが、その落差は小さくなる。現実として起こっているのは、世界が分割される方向ではなく、統合される方向だけれども。<br>
<br>
受け手＝消費者側としては、それほど問題に感じないこの状況。しかし、企画側＝商品やサービスを送り出す側にとってみれば、なかなか頭の痛い問題かもしれない。わたしにとってのシャンプーのような商品は、できるだけ大量に効率よく作ってコストを圧縮するような生産体制にしつつ、わたしにとってのガジェットのような製品ではそれこそ消費者対話型の設計にして、細かいニーズに応えつつ丁寧な物作りをしていかなければならない。この二つのものづくりは体制としてかなり異なるので、どちらでいくかの見極めをしないといけないだろう。このどちらの体制にも振り切れない中途半端な商品もあるので、難しそうだ。<br>
<br>
たとえばこれからレコメンデーションの技術が発達していって、シャンプーに興味のない私にとってもそれなりに最適化された、私向きの商品（もし私がシャンプーにこだわったら選ぶであろう商品）が届くようになるのだろうか。あるいは私がシャンプーにうるさい友人に「何を使ったらいい？」と聞くような、こだわりユーザーが作るあたらしい評判市場が生まれ、こだわりユーザーと素人ユーザーをつなぐクチコミ回路が生まれるのだろうか。いまのカカクコムのようなサービスは、不完全ながらこのような姿を目指しているのかもしれない。<br>
<br>
いま気になることがあるとすれば、マニアック化していくということは、素人にとって手を出さない理由になりうるということだ。上記の例では、シャンプーという必需品を例に出したものの、これがゲームやアニメだったらどうだろう。「最近のはむずかしくてよくわからないよ」という人は、一番売れているものを買うのだろうか。そういうこともある。しかし、一番あり得る反応は、「よくわからないから手を出さない」ではないだろうか。だって素人なんだから、そんなにもともと興味がない。<br>
<br>
多くの市場がマニアック化していくということは、その方面に強い興味がない素人にとってみれば、多くの市場がそもそも手の届く範囲外に行ってしまうということではないだろうか。<br>
<br>
同時に、その市場に興味のあるマニアックな人にしてみれば、選択肢が増えたことに喜びつつも、素人が脱落することで同胞が少なくなっていき、市場が大きさを保てなくなって新しい商品が出なくなったり、世の中でたくさん売れている商品と自分たちの好む商品との差が量・質ともにどんどん広がっていって、フラストレーションを感じることが増えるかもしれない。<br>
<br>
多様化するから一人勝ちが生まれ、多様化していくほど全体として小さくなる構造が生まれていくのであれば、これは必ずしも喜ばしいとはいえない。補助線を引いたとおり、もともとは個々人の時間や記憶力・好奇心がそのままであることに根っこがある。これを爆発的に広げるという選択肢は、あるのかないのか。ITってそういうことにも使われるべきだし、使われていると思うけれど、もっとスピードをあげなければいけないのかもしれない。]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51533394.html">
<title>社長と工場</title>
<link>http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51533394.html</link>
<description>ブログ「創造と環境」の著者であり、新刊「クルマの広告」を出された西尾忠久さんと、年末に食事をご一緒する機会をいただいた。有意義な話をたくさん聞くことができたので、いくつかをここで紹介したい。

西尾さんはコピーライターとして、DDBというアメリカの有名な広告...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2009-01-05T21:17:17+09:00</dc:date>
<dc:subject></dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[ブログ<a href="http://d.hatena.ne.jp/chuukyuu/">「創造と環境」</a>の著者であり、新刊「クルマの広告」を出された西尾忠久さんと、年末に食事をご一緒する機会をいただいた。有意義な話をたくさん聞くことができたので、いくつかをここで紹介したい。<br>
<br>
西尾さんはコピーライターとして、DDBというアメリカの有名な広告会社に取材を申し込みにいったのだけれど、そこでのエピソード。DDBのバーンバックさんという人にアポイントを取りたいのだけれども、元々知り合いではないし、当時はEメールがない。そこで手紙を送るのだけれども、手紙に記念切手を貼るのがポイントだという。<br>
<blockquote>秘書というのは（多くの手紙を開封しているので）切手コレクターが多い。だから、珍しい切手を貼って送れば開封率があがるし、「この人はいい人だ」という印象を持ってもらえる。</blockquote>手紙はもちろんバーンバックさんに送っているわけだけれど、ポイントは秘書を通過できるかどうか。そこで、秘書に好感を持ってもらうための施策を考案したということだ。<br>
<br>
<br>
もうひとつ。西尾さんがアメリカに行くことになったときのことで、足袋を何サイズか持参したのだという。<br>
<blockquote>私は、住む人の生活を見ないとその地に行ったことにならないのではないかと考えている。で、どうやって他人の家にあげてもらうか。まずは、（現地で）会った人に足袋をプレゼントする。そのうえで、「奥さんの分なのだが、奥さんの足のサイズは？」と聞く。奥さんの足のサイズは普通知らない。そこで家に電話をすることになる。そこでまずコンタクトがとれる。しかも足袋は履くのに技術が必要だ。夫にはその場で履き方を教えるが、夫から奥さんへ説明するのは難しいので、奥さんが「せっかく足袋もくれたんだし、その人を家に呼びなさい」と夫に言う。それで家にあげてもらうことができる。</blockquote>うまいなあと思う。どこを突破すればいいかといいかという戦略と、そこを突破するためのアイデアが両方入っている。<br>
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<a href="http://d.hatena.ne.jp/chuukyuu/">「創造と環境」</a>および「クルマの広告」では、フォルクスワーゲンの広告が出てくる。特徴のあるビジュアルと、事実を軽妙なタッチで描いていくその作風には、変にひねった感じも、いやらしい感じもない。事実、このフォルクスワーゲンの広告群は名作とよばれて久しいものだけれども、その源泉は制作者のクリエイティビティという一言ですませばよいものだろうか。その点について、ヒントとなるのが西尾さんの仕事に対する姿勢で、そこには二つのポイントがあるという。<br>
<blockquote>仕事では、ふたつのことをお願いする。ひとつは、「社長に会わせろ」。もうひとつは、「工場を見せろ」である。</blockquote><br>
なぜ社長かというと、現場担当者レベルの場合、上司への言い訳を考えて自主規制を敷いてしまい、思い切ったことができなくなるいう問題があるからだ。社長は、変なところでNGを出したりもするが、基本的には度胸があるので、まっとうなメッセージであれば思い切ったものでも受け入れてくれることが多い。（ちなみに、ソフトバンクの広告はほとんど孫社長が直接タッチしているという）<br>
<br>
工場を見せろというのは、商品を知らずに広告は作れないということである。私もクライアント企業の内部を見せてもらうことがよくあるけれど、クライアントにとって当たり前の慣習や努力は第三者にとって非常に魅力的だったりすることがある。クライアントが考える「伝えたいこと」よりも魅力的な「伝えるべきこと」が見つかるのである。それを深いレベルで行うためには、やはり工場を見るのが手っ取り早いと思う。<br>
<br>
商品のことをきちんと見て、一番真剣に考えている人と話す。何がポイントなのかを把握して、一つのアイデアで複数の条件を串刺しにする。書いてしまえば一行で終わってしまうが、その深みが重要なのだと思った。西尾さん、そして場を設けてくださった三宅先生、ありがとうございました。<br>
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<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%BA%83%E5%91%8A%E2%80%95%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E7%B5%B5%E6%9C%AC-%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%A5%BF%E5%B0%BE-%E5%BF%A0%E4%B9%85/dp/4845408139%3FSubscriptionId%3D15JBHWP7TH9QYT1RMHG2%26tag%3DLvdrfree-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4845408139"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41Z5yRIPmNL._SL160_.jpg" alt="クルマの広告―大人のための絵本 (ロング新書)" border="0" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%BA%83%E5%91%8A%E2%80%95%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E7%B5%B5%E6%9C%AC-%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%A5%BF%E5%B0%BE-%E5%BF%A0%E4%B9%85/dp/4845408139/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1231158131&sr=8-1">クルマの広告―大人のための絵本 (ロング新書)</a><br />著者：西尾 忠久<br />販売元：ロングセラーズ<br />発売日：2008-12<br />]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51529970.html">
<title>プレゼンとドキュメント</title>
<link>http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51529970.html</link>
<description>プレゼンテーションにはドキュメントが付属していることが多い。学級会での個人発表レベルならともかく、業務でプレゼンを行うということになれば、たいていの場合はドキュメントの準備を行う。

プレゼンにドキュメントが必要とされがちなのは、主にコミュニケーションと...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2008-12-30T19:41:07+09:00</dc:date>
<dc:subject>プレゼン手法</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[プレゼンテーションにはドキュメントが付属していることが多い。学級会での個人発表レベルならともかく、業務でプレゼンを行うということになれば、たいていの場合はドキュメントの準備を行う。<br>
<br>
プレゼンにドキュメントが必要とされがちなのは、主にコミュニケーションとアーカイブのためだ。発表した内容は、あとで別の人間で共有して意志決定に用いられたり、のちのち参照するためにドキュメントにしていると考えられる。<br>
<br>
プレゼンの目的を、その場での説得・報告ということに絞るのであれば、ドキュメントである必要はないし、そうでないほうがいい場合さえある。「エレベーター・プレゼン」という言葉があるが、あれは（重役などが）エレベータに乗っている間に要点を言い切れるくらいのものに純化させなければいけないという話だ。<br>
<br>
プレゼンのドキュメントは放っておくとどんどん内容が増えていってしまうことがある。あれもこれも、念のためといって増えていってしまう。この意識の背景にあるのは、「もし不要ならば読み飛ばしてもらえばいいから」という考えである。もともとコミュニケーションやアーカイブのためにドキュメント化を行っているのだが、ドキュメントの読み飛ばし性が前面に出て、内容がどんどん増えてしまう。<br>
<br>
内容がむやみに増えていけば作成に手間がかかるし、後で読まされる方も重要度の選別をしながら読まなければいけないので、誰にとってもいいことはない。だったらそれこそエレベータープレゼン、口頭に限る！としてしまえばいいかというと、それではその場にいない人には内容がきちんと伝わらない。ある程度以上の規模の会社においてこのようなことを行うことは現実的ではないだろう。<br>
<br>
ドキュメントのもつコミュニケーション性やアーカイブ性を生かしながら、無意味に内容が増えてしまうことを防ぐには、ドキュメントの量を制限するというのが現実的だろう。プレゼンを受ける側から、「○○枚まで。」と区切ってしまうしかない。たいていのプレゼンは時間で区切られている（60分とか）が、Appendixなどで量が増えている例も多いので、ドキュメント自体の量を制限するほうがよい。<br>
<br>
<blockquote>社内プレゼンテーションは、A3用紙1枚にまとめるのが決まり。A3スペースに「問題定義と背景」「要因分析」「実行スケジュール」「結論」「今後の課題」などを明確に、分かりやすく書く。 <br>
（<a href="http://premium.nikkeibp.co.jp/itm/spe/37/">「昇進遅い」「給料安い」「非効率なダラ会議」の「古臭い」トヨタが成功した「本当の理由」 - bpspecial ITマネジメント</a>）</blockquote><br>
トヨタでは上記のように、A3一枚でまとめる文化があるようだ。社内プレゼンテーションでは･･･と書いてあるが、社外からのプレゼンでもA3一枚でのまとめを提出することが多い。この慣習は広めていくべきと思う。A3一枚だからといって作るのが楽になるわけではないが、無駄は減る。ドキュメントの持つべき役割とそれが持つ罠をうまく処理していると思う。]]>
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</item>
<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51528939.html">
<title>一億総表現社会に期待する</title>
<link>http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51528939.html</link>
<description>昔から、そして今も、コンテンツの収益化というのは難しい問題であるとおもう。ちょっと前まではCDとか、新聞紙とかいった物理的制限のあるモノを経由させることでお金をとる仕組みがあったけれど、データだけでやりとりするようになれば、コピーし放題、どうやってお金を取...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2008-12-28T21:37:56+09:00</dc:date>
<dc:subject>完全な雑談</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[昔から、そして今も、コンテンツの収益化というのは難しい問題であるとおもう。ちょっと前まではCDとか、新聞紙とかいった物理的制限のあるモノを経由させることでお金をとる仕組みがあったけれど、データだけでやりとりするようになれば、コピーし放題、どうやってお金を取るのかも結構難しくなってきている。<br>
<br>
そういったお金の取り方とは別に、コンテンツというものをどうやって評価すればいいのか、という問題もあったりする。コンテンツは消費してみないと評価し得ないうえに、ひとりひとりの時間は限られているので、そうかんたんに市場で評価すればいいというわけにもいかない。このまえ雑誌編集をやっている人と飲んだら、「煽った内容なんて本当はやりたくないが、そうしないと全然売れなくなってしまう」と愚痴をこぼしていた。<br>
<br>
テレビには視聴率という評価基準がある。どれだけ多くの人が見たかという数値ということになっている。テレビマンはこの視聴率を効率よく高めることを目指すだろう。しかし、その結果、安直な、同じような番組が繰り返されるという批判もある。ハリウッド映画で続編ばっかり出てきてしまうのはこういった効率よい運営の結果だと思われる。批判はあるけれども、制作者側もくだらないものを作りたいと思っているわけではない。評価基準に忠実なだけだ。<br>
<br>
なにがいいコンテンツなのかという正解がないなかで、コンテンツをみんなにとって納得のいく方法で評価する方法はないものだろうか。何かヒントがほしい。<br>
<br>
Googleのページランクは、論文の引用回数にヒントを得ていると聞いたことがある。Googleでは、基本的にリンクの量と質で評価をつけている。単純な被リンク数に加え、リンクをたくさんされている＝評価の高いサイトからリンクされることが大きなプラスになる。これはいわゆる視聴率方式とはちょっと違う。視聴率方式でそのまま考えるなら、各サイト（ページ）の閲覧回数＝ページビューで測るはずだ。<br>
<br>
閲覧回数（ページビュー）ではなく、リンクによって評価されるとはいったいどういうことなのか。閲覧回数を、いま視聴率と同じものだとすると、リンクはどういう意味を持つのだろう。<br>
<br>
ここで注目したいのは、ウェブにおいては、閲覧する人種と、リンクをする人種はちょっと違うということだ。ウェブにおいて、リンクを貼る人というのは、元コンテンツを見ただけではなく、少なくとも何かを書く人である。画面を眺めている＝閲覧者であるだけではリンクを貼れない。ブログでも何でもいいけれど、自分の持っているサイトに何か書かないといけない。あたり前の話だ。<br>
<br>
つまり、大ざっぱに言うと、閲覧回数でなくリンクで評価するというのは、こういうことではないか。読み手ではなく、書き手による評価を信用する。そして、読み手ではなく書き手による評価を重視するというのは、考えてみれば理にかなっている制度だ。<br>
<br>
だいたいにおいて、人気による評価を基準にコンテンツを試聴するような人は、別にそのコンテンツを評価したくて試聴しているわけではないし、そもそも評価基準がわからないから人気に頼っているのである。なにも無理して、評価する気のない人の視聴行動を評価基準にする＝販売数・試聴数・閲覧数による評価をする必要がない。（もちろん、コミュニケーションの肴としてのコンテンツということであれば、「みんなが見ているアレ」にはそれだけで価値がある）<br>
<br>
一億総表現社会という言葉がある。<br>
ウェブサイト経由での発信という意味では、一億総表現にはなりそうもないし、なる必要もないと思う。しかし、少なくとも今まで発信者が10人くらいだったとすると、それは100人くらいになったのではないだろうか。増えた90人は、今までどおりユーザーでもあるが、新たに生まれたメイカーでもある。急に増えたその90人、仮にいまそれをブロガーと限定してしまうと、ブロガーの可能性は彼らの書くブログそれ自体よりもむしろ、メイカーとしてのコンテンツ評価力にあるのではないだろうか。調べたわけではないのでなんともいえないけれど、大まかに言って、ブロガーは（他人の）ブログをよく読む。そして、当然ながら書く。読む目と、書く目を持っている。<br>
<br>
ケータイ小説が受け入れられた理由がよくわからなかった。先日、地下鉄の中で、（たまたま）ケータイを持って立っている女性を後ろから眺めていた。彼女は、メールを書いたり読んだりしていたが、ケータイ小説も読んでいた。後ろから見ていると、その行為は同じように見えた。ケータイ小説の市場は、メールの延長上－個々のユーザーが書くメールが長くなったものであり、メールを書いている人はその延長としてのケータイ小説を受け入れているのではないだろうか。<br>
いささか無謀にも推測してしまうと、携帯メールを読むこととケータイ小説を読むことは非常に近く、携帯メールを書く/読む経験に長けていればいるほど、その延長としてのケータイ小説のよきユーザーになるのではないのだろうか。<br>
<br>
私は小説をほぼまったく読まないが、作家さんのブログは好きだ。優れた書き手がもつ、独特の評価眼に強く惹かれる。同様に、デザイナーのブログも好きだ。彼らは優秀なつくり手であると同時に、優秀な評価者でもある。<br>
<br>
一億総表現社会はたぶん来ない。しかし、一千万総表現社会くらいならなんとかなるだろう。そのときに、その一千万の人が持つ「つくり手としての評価の眼」に、コンテンツ評価の未来がかかっているのかもしれない。<br>
<br>
プロのコンテンツメイカーは、これから苦しくなるだろう。しかし、目の肥えた評価者が増えるという解釈が可能ならば、あるいは希望が持てるのではないだろうか。]]>
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</item>
<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51520577.html">
<title>シンプルのこころ</title>
<link>http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51520577.html</link>
<description>たとえば飲み会を開くことになったとする。お店選びはどうしよう。攻める必要はないが、失敗は避けたいお店選び。白木屋や和民ではありがちで芸がない、しかしそんなにがんばる必要はない。
なら、際コーポレーションやグローバルダイニングが運営している店舗にいけばいい...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2008-12-13T04:31:07+09:00</dc:date>
<dc:subject>マーケティング戦略系</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[たとえば飲み会を開くことになったとする。お店選びはどうしよう。攻める必要はないが、失敗は避けたいお店選び。白木屋や和民ではありがちで芸がない、しかしそんなにがんばる必要はない。<br>
なら、<a href="http://www.kiwa-group.co.jp/">際コーポレーション</a>や<a href="http://www.global-dining.com/">グローバルダイニング</a>が運営している店舗にいけばいい。ある程度の規模があり、安心できる。それでいて、同じ店はそれほどないのでそれなりの希少性を楽しむこともできる。<br>
恵比寿なら、<a href="http://www.foodscope.com/index.html">foodscope</a>、<a href="http://japanchickenfoodservice.co.jp/top.htm">ジャパンチキンフードサービス</a>。カフェなら、<a href="http://www.renovationplanning.co.jp/">renovation planning</a>あたりを狙えばいい。<br>
<br>
運営は同じ会社なのに、名前が違うお店がたくさんある。統一するどころか、違うお店がどんどん増えていく。シンプルじゃなくて、店舗運営はさぞかし面倒だろう。<br>
<br>
相変わらずユニクロが好調だ。やっぱり安いことがいいのだろうか。でも、ジーンズメイトだって十分安い。<br>
そういえばユニクロの服には、他の洋服ブランドと比べて柄が少ない。飾りも少ない。シンプルさがよいのだろうか。<br>
<br>
シンプルといえば、アップルだ。デザインにおけるシンプルさはアップルの特徴のひとつになっていると思う。でも、なぜシンプルなのだろう。本当にシンプルが偉いなら、競合他社はなぜシンプルにしないんだろう？部長や社長が許してくれないんだろうか？ところで、みんなシンプルになれば解決するんだろうか。<br>
<br>
シンプルさってなんだろう。シンプルは大切だって言われる。でも、複雑にして成功していることもある。本当に「シンプルにしろ！」と唱えていればいいのだろうか？シンプルのこころってなんだろう。<br>
<br>
そういえば、ユニクロはシンプルだけれど、色はたくさんある。シンプルとだけ言うのなら、白と黒くらいで他にはいらない。なのに、びっくりするくらいのカラーバリエーションがある。<br>
確かにiPodはシンプルだけれど、最近色も形も増えて、必ずしもラインアップはシンプルとはいえない。アップルは間違った方向に進んでいるのだろうか。<br>
誰もが「顧客は多様化している」なんていう。だから、商品も多様化しないといけないと。ユニクロもアップルも、これからどんどん多様化していくのだろうか。<br>
<br>
シンプルのこころは、単に要素を減らすということではたぶんない。気持ちよく選べる程度の数にするということだ。お客さんがわからないことなら、ひとつだけ提供する。すでにわかっていることなら、選べるだけ提供する。要は、ものがシンプルなのではなくて、選ぶ側の気持ちがシンプルになるようにするということだ。<br>
<br>
お客さんは、服の柄や飾りを選ぶのが難しいと感じている。でも、色だったら好きなものを選べばいい。選ぶ側の気持ちがシンプルになるためには、色を増やすけど柄は増やさない。<br>
iPodは、さすがにみんな知るようになってきた。買うときの色、入れる曲数なら選べる。でも、はじめて操作する人にとっては、ボタンがたくさんあるのは敬遠したい。色とタイプは増やしていいけど、ボタンは増やせない。それがシンプルのこころ。<br>
<br>
どこで聞いたか忘れたけれど、iPodのスクロールホイールは、学習効果を期待しているらしい。見慣れない形だが、さわっている間にユーザーが学習すると。<br>
とはいえ世の中には、見慣れない、見た目によくわからないインタフェースがたくさんある。後付けの理屈でないとすれば、スクロールホイールだけなぜ「ユーザーが学習する」と言い切れるのだろうか。おそらくポイントは、一度にやることはシンプルで、シンプルな操作を重ねながら学習できるところにある。<br>
<br>
スーパーマリオで感動した話。ゲームが始まると、マリオは左端にいる。だから右に行くしかない。右に行くとクリボーが寄ってくる。そして頭上にブロックがある。飛ぶしかない。これも、一つ一つのシンプルな動作を重ねていくことで、ユーザーが学習できる設計になっている。シンプルから、複雑へ渡る橋が用意されている。<br>
<br>
わかっていることなら、選べるだけ提供する。わからないことなら、ひとつだけ提供する。ひとつだけ選んでもらったら、またひとつ、選んでもらう。その組み合わせで、学習してもらう。結果、複雑にならざるを得ないとしても、一度にやることはひとつだけ。ユーザーも市場も、最初はわからない、選べないけれど、ひとつひとつ学習する。<br>
<br>
わからない、わかっている、わかるようになる。それを見据えた上で、色も、操作も増やしていく。選ぶ側の気持ちがシンプルになるように。<br>
シンプルのこころは潔さでもストイックさでも、美しさでもない、やさしさにあるのかもしれない。]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51465224.html">
<title>「ブランディング」のすれ違い</title>
<link>http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51465224.html</link>
<description>ちょっと前にネットで「ブランディング」という言葉を目にしていて、違和感を感じることがあった。ネットメディアの人が言う「ブランディング」と、オールド広告人（＝自分）が考える「ブランディング」に、隔たりがある。これは何だろうと思っていたが、大ざっぱに言うと、...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2008-09-12T02:09:18+09:00</dc:date>
<dc:subject>マーケティング戦略系</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[ちょっと前にネットで「ブランディング」という言葉を目にしていて、違和感を感じることがあった。ネットメディアの人が言う「ブランディング」と、オールド広告人（＝自分）が考える「ブランディング」に、隔たりがある。これは何だろうと思っていたが、大ざっぱに言うと、ネットメディアにおけるブランディングは「量」を指しており、オールド広告人の言うブランディングは「質」のことを指している。わりとそこら辺ですれ違っているようだ。<br>
<br>
ネット広告というのは個人の具体的な購買にいかに張り付くかというところで既存メディアと差別化しているので、基本的にはディープなターゲティングと、購買になるべく近いところでの広告差し込みがポイントになってくる。これは購買を基準にした効率で効果を定義していることによるわけで、それがこのメディアの可能性でもあるし限界にもなったりしている。そうするとネットメディアの人々にとっては、とかく露出が多いバナーみたいな存在は重要ではあるが売りにくい存在になってしまう。その流れから、「や、購買には直接結びついていないけど認知を高めることで間接的に効果が出ていますよ」という、それをブランディングと呼んでいる。だから基本は量の露出がブランド効果という文脈になる。<br>
<br>
対して、オールド広告人は数十年マス広告をやってくる中で、需要が伸び悩み商品は細分化するような時代に突入し、そんな中でいかに「暴力的な露出によって新商品は売れるがすぐ他社の新製品に塗り替えられる」現象を打破するかということに悩んでいた。そんな中で、持続的に顧客と関係を作って、ポっと出の暴力的な露出をする新商品に対抗し、安売り競争に巻き込まれないようにする方法としてブランディングに注目し始めている。だから、露出の量は前提としつつ、露出の質に対して神経質になる。質と継続性がブランドをつくるという考え方だ。<br>
<br>
このあたりの差があるので、両者がブランディング議論をすると微妙なすれ違いが生まれるのではないかと思う（議論をしたことがないのでわからないけれど）。<br>
<br>
私はオールド広告系なので質派ということになる。なのでその観点から語ってみる。量、つまり認知の多さだけではブランディングというのは難しい。例として銀座と品川を考える。<br>
<br>
「銀座」。銀座はブランドだろうか。「大阪における銀座はどこ？」「うわーあの人、銀座っぽい」。こういう会話が成り立つのは、銀座がイメージの広がりを持っており、その会話をしている人たちが、何が「銀座的」であることについてある程度の了解を持っているとされるからだ。多くのモノやコトについて、銀座的かどうかの判断は比較的かんたんだし、ぶれがないと思う。<br>
<br>
では、「品川」はどうだろう。品川は、東京近郊の人なら地名としては知っているし、東京の人でなくても新幹線を使う人なら名前は知っているかもしれない。でも、銀座に比べると品川はブランドといいにくい。それは高級できらびやかなイメージがないから、ではない。聞いたことはあっても、そこにイメージが広がらない、何が品川的なのかが共有されていないからだ。<br>
<br>
たとえがよくなかったかもしれない。いやそれはやはり認知の強度の問題で、みんながまだ品川についてよく知らないためだといわれるかもしれない。<br>
<br>
現場の例で考えてみる。ここにある商品Aがある。Aは定期的にキャンペーンを打っている。今年の夏はタレントBを使用し、さわやかに売り出した。ところが競合Cが癒し系で売ってきて、シェアをだいぶ奪われた。そこで秋から方針転換をして、癒し系の女優Dを使ってキャンペーンを張った。ただ、食い合いになってしまったという反省も含めて、来年の夏には洗練をテーマにすることにした。･･･極端な例だが、こういうことは起こりうる。何が起こるかというと、名前はみんな知っているのだが、人によって持っている印象が異なったり、時期によってころころ変わるためになんだかわからない印象になっていたりする。認知はあるがブランドになりきれない。<br>
<br>
ところでウェブなのだけれど、（最近はそうでもないが）ネット広告はキャンペーン広告的な表現を用いることが多い。理由は最初に述べたとおりで、効率から最適化しようとするとどうしてもキャッチーでベタな表現になることが多いためだ。それでも軸がぶれていなければいいのだけれど、効率が落ちてきたりすると表現を刷新したり、よりターゲットに近い表現に最適化したりして一貫性が保てなくなることが多い。そうなると、オールド広告人の考える「ブランディング」とは方向がずれてくる。このあたりに、効率と一貫性のジレンマみたいなものが生まれてくる。それとともに、用語としてのブランディングにも微妙に混乱があったりして、ネットにおけるブランディングがどうあるべきか、というのはまだまだこれからという印象がある。<br>
<br>
オチはとくにありません。]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51465203.html">
<title>不気味の谷のアバター</title>
<link>http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51465203.html</link>
<description>不気味の谷という概念があるそうだ。
日本のロボット工学者、森政弘が1970年に提唱した。森は、人間のロボットに対する感情的反応について、ロボットがその外観や動作においてより人間らしく作られるようになるにつれ、より好感的、共感的になっていくが、ある時点で突然強...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2008-09-12T01:21:31+09:00</dc:date>
<dc:subject>メディア系</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[不気味の谷という概念があるそうだ。<br>
<blockquote>日本のロボット工学者、森政弘が1970年に提唱した。森は、人間のロボットに対する感情的反応について、ロボットがその外観や動作においてより人間らしく作られるようになるにつれ、より好感的、共感的になっていくが、ある時点で突然強い嫌悪感に変わると予想した。人間の外観や動作と見分けがつかなくなると再びより強い好感に転じ、人間と同じような親近感を覚えるようになると考えた。このような、外見と動作が「人間にきわめて近い」ロボットと「人間と全く同じ」ロボットによって引き起こされると予想される嫌悪感の差を不気味の谷と呼ぶ。（<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%B0%97%E5%91%B3%E3%81%AE%E8%B0%B7%E7%8F%BE%E8%B1%A1">不気味の谷現象－wikipedia</a>）</blockquote><br>
たしかにロボットなどでは、本物のヒトに似ているものがあって、「なぜここまで似せなければいけないのか」という思いとともに、何となく不気味な印象をうけることがある。多くのロボットにおいては、機能を果たす上では、必ずしも本物のヒトに似せる必要はない。そんなときには、別にそこまでリアルでなく、デフォルメされたアニメキャラのような姿のほうが好感が持てたりする。個人的にはこの「デフォルメ」というやり方は大変うまいと思っていて、不気味の谷に対する一つの強力なアプローチなのではないか、と思ったりする。<br>
<br>
不気味に対するデフォルメ。<br>
<br>
ネット上では、トラッキングなどの技術が発達してきて、どんどん個々人のことを追跡できるようになってきている。その恩恵としてリコメンドなどもあるわけだけれど、行動ターゲティングなどの分野ではその気持ち悪さに対してそろそろ拒否の声があがってきそうだ。ネットにアクセスする一人の人間として、「なんで俺を俺と知ってるんだ？」という不気味さは、どこかで臨界点を迎えるのではないかと思う。全く同じというわけではないが、対象物に近づいていくと不気味になってくるというところに「不気味の谷」と似た匂いを感じる。<br>
<br>
そこでデフォルメ、である。トラッキングの不気味さを、デフォルメによって克服することは出来ないものかと考える。私も含めて、多くの人はネット上にすべての人格をさらけ出しているわけではない。その必要もない。ネットサービスにおけるID、あるいはハンドルネームというものは、私と紐付いているが私自身ではない。これはある種のデフォルメといえるのかもしれない。というわけで表題に至るのだけれど、トラッキングの不気味の谷を越えるための存在として、アバターというのがありやなしやということである。<br>
<br>
デフォルメといったからといって、別に人間の姿をしていなければいけないということもないだろう。ただ、認識の記号としてIDやハンドルネームといった文字がなんとなく素っ気ないような気も一方ではする。先進ネットユーザーは別として、単にネットを眺めるような多くのユーザーにとっての、トラッキングの不気味さを緩和する壁としてのアバターという考え方は、もしかしたらあるのかもしれないな･･･と思ってみた。<br>
<br>
もしかして現状のアバターでいいのかもしれないけど、個人的にはペットみたいなもののほうが、適度な距離感を保てていいのではないかと思ったりもする。だったらポストペットでいいじゃないか、と言われてしまいそうだが、わりと誰でも参加できて、変に本人に近すぎず、コミュニケーションの道具になれたり愛着を持てたりする存在としてまだ最適化されているわけでもない。個人的には、それが将来的にはマイ"ボット"みたいなかたちで、放っておいても自分好みの情報を取ってきてくれたりする能動的な存在になったりしたらおもしろいと思う（前に書いたかも）。<br>
<br>
アバター開発周りの人たちはそのあたりの可能性を感じ取っているのかもしれないが、なんだかいまいち盛り上がっていないようだ。実名顔出し文化にやや抵抗がある（かつデフォルメキャラとかめっぽう強い）日本でなんらかの可能性が花開くのではないかと思っているのだけれど。<br>
<br>
まあ、アバター自体の可能性はともかく、デフォルメという概念は現状のままで放っておくにはもったいない、使いでのある道具だと思う。<br>
<br>
<br>
<br>
※アバター周辺の考察はけっこう前からいろんな人がされているので、リンクを並べます。<br>
<a href="http://www.h-yamaguchi.net/2007/08/post_8d39.html">H-Yamaguchi.net: アバターを何に使うか</a><br>
<a href="http://jp.techcrunch.com/archives/virtual-goods-the-next-big-business-model/">TechCrunch Japanese アーカイブ &#65533; バーチャルグッズ～次のビッグなビジネスモデル</a><br>
<a href="http://akihitok.typepad.jp/blog/2007/06/post_1e4b.html">POLAR BEAR BLOG: あのアバターの中の人は？</a><br>
<a href="http://adinnovator.typepad.com/ad_innovator/2007/06/post-3.html">Ad Innovator: 今日の解説：アバターとオーナー</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51464605.html">
<title>ほにゃららハックという思想</title>
<link>http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51464605.html</link>
<description>最近はあまり目にしないが、ブログを読んでいると「○○ハック」という呼び名でお役立ち記事があがっていることがある。以前まで私はそういうものを、なんかの裏技、たとえばExcelのショートカット集みたいな、仕事の効率アップのためのものとしてとらえていた。もちろん、そ...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2008-09-11T02:54:15+09:00</dc:date>
<dc:subject>完全な雑談</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[最近はあまり目にしないが、ブログを読んでいると「○○ハック」という呼び名でお役立ち記事があがっていることがある。以前まで私はそういうものを、なんかの裏技、たとえばExcelのショートカット集みたいな、仕事の効率アップのためのものとしてとらえていた。もちろん、そういう要素もあるのだろうが、あらためてこの「ほにゃららハック」という考え方が、意外にも深い可能性を秘めているのではないかと思えてきた。いや、もしや周回遅れなのか。<br>
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いったん話が飛ぶけれど、個人的に、最近、買い物がおもしろくない。休日に買い物をしようと街に出るのだけれど、商品を見てもいまいち気分が盛り上がらない。理由ははっきりしていて、「これは正解なのか？」という問いを自分で発してしまうからだ。お総菜を買いに行くならともかく、服やら雑貨やらを買いに行くときまでそういうことを考えて、結局疲れて帰ってきてしまう。<br>
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休日も不完全燃焼気味だ。「今日は何をするのがよいだろうか？」「今週末は何も生産的なことができなかった」「何をすれば良かったのだろうか」「そもそも何かしたいことがあったのだろうか」などと、無意味な自己問答をしてしまったりする。仕事じゃないんだからそういう問いを発する必要はないだろう。<br>
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目的と手段を混同することは良くないこととされる。何らかの目的のために手段があったのに、その手段に拘泥してしまって、結果として当初の目的を踏み外すことがあるからだ。逆のパターンもある。もともとそれ自体が目的であった、それ自体が楽しかったのに、変に目的意識を持つことで現状が不完全であるかのような気持ちになってしまう。さっきのショッピングはそんな例かもしれない。<br>
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しかし、場合によっては、これを意図的に入れ替えることで物事が進んでいくこともある。たとえば、会社でやっている、目の前の仕事を好きになるとき。もともと会社の仕事には目的があるわけだけれど、あまりに割り切ってもおもしろくなくて、広告制作なら広告制作自体を楽しむ、など、半ば趣味的に楽しんでしまってモチベーションアップを図ることがある。逆に、趣味でやっていることをよりハイレベルにするために、コンテスト出場を目標に据えたり、それを仕事にすると決めてしまうなど、外部に目的を持つことでレベルアップが図れることがある。もちろん、程度の見極めが重要なのだが、絶対に混同してはいけない、ではつまらなくなるのではないか。<br>
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さらに話は飛ぶかもしれないが、こういう目的と手段の入れ子構造はコミュニケーションにも見られることだ。コミュニケーションに関わる仕事をする身（広告業）としては、常にそれをなんらかの目的と結びつけようとする。たしかに、コミュニケーションには「何らかの目的がある場合もある」。しかしそれは取り出しうる一つの要素ということであって、コミュニケーションには外部に目的が不可欠というわけではない（それ自体が目的なこともある）。広告というビジネスモデルは、目的があやふやなコミュニケーションに、企業側の目的をうまく差し込んで、結果としてビジネスとして成立させるという不思議なモデルでもある。<br>
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いったん、話を戻して。<br>
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仕事は仕事と割り切って。趣味は趣味で割り切って。そうではなく、二つを意図的に混同させて、結果として物事がうまく進むようにしてしまう。ほにゃららハックというものには、そういう思想があるのかもしれない、と思った。<br>
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と、ここまで書いて糸井重里氏が昨年末に書いていた「<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071023/138299/">公私混同原論</a>」を思い出した。彼の書く内容は、私にとっては常にわかるようでわからない。時間が経つと何となくわかる。そういう傾向があるのだが、彼の言う「公私混同のススメ」というのは、このほにゃららハックという思想と関係あるかも、と思った。<br>
<blockquote>なぜかみんな、「理由のないこと」が結構、許せなくなっているんですよ。正しくて、役に立って、見たり使ったりするための時間を消費するだけの、はっきりした理由があらかじめ、ある。そういう「公」に認められたものだとかことだとかしか許さない。そんな傾向があると思います。</blockquote><blockquote>これはですね、誤解しないでほしいのですが、「だからルールはだめなんだ」って話をしているわけではないんです。「論理」も「現実」も、どちらも正しいんです。だから、論理と現実の間で喧嘩をしても始まらない。そうではなくて、論理と現実の間にある「壁」を点滅させて、運用する――。みたいなことがぼくの考える「公私混同」なんです。</blockquote><br>
＠ITにも公私混同の記事があった。<br>
<blockquote>冒頭の言葉に記者が唸ったのは、次のような直感があるからだ。ICT関連ツールで起こっている公私混同というのは、急変する環境のために一時的にできた制度上の亀裂というよりも、長い目で見れば、企業と、そこで働く人の関係が変化しているその兆候ではないか。（<a href="http://www.atmarkit.co.jp/news/200803/10/weekly.html">21世紀最大のテーマは公私混同 － ＠IT</a>）</blockquote><br>
ここでは、半分フリーであるような、職業におけるスタンスのあり方として公私混同という言葉を用いている。しかし本質的には、組織における仕事をハックして趣味的にし、自分の趣味をハックして仕事に生かす、ということも含めて指しているのではないだろうか。<br>
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目的と手段を、ときによって使い分けながらよい結果が出るようにする。仕事的な態度と趣味的な態度を行き来する。完全に切り分けて先鋭化させず、動的にバランスを取る。個々人の生き方としては、この、ハックという思想がありうるのかなと思う。仕事的に、無機質に流れていくことに、趣味的なことを見いだすこと。逆に趣味的になって不満が募るようなら、仕事的なやり方を入れて、いわゆる「結果が出る」ように変えていくこと。そのバランス感覚はあくまで個人のものだと思うが、その根底にある思想をいま「ほにゃららハック」と呼べるなら、それはこれからますます重要になると思う。]]>
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</item>
<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51435232.html">
<title>エコと広告</title>
<link>http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51435232.html</link>
<description>ここしばらく忙しく、テレビをあまり見ていなかったので、久しぶりにまとまった時間をかけて見てみた。いろいろなところで聞いていたが、やはりパチンコの広告がものすごく増えている。それとともにびっくりしたのは、エコネタが段違いに増えていること。これは原油高が大き...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2008-07-28T02:06:56+09:00</dc:date>
<dc:subject>マーケティング戦略系</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[ここしばらく忙しく、テレビをあまり見ていなかったので、久しぶりにまとまった時間をかけて見てみた。いろいろなところで聞いていたが、やはりパチンコの広告がものすごく増えている。それとともにびっくりしたのは、エコネタが段違いに増えていること。これは原油高が大きく影響しているのだと思われるが（パチンコ広告が増える遠因でもあるが）、番組、CM問わず何かと「エコ、エコ」という言葉が出てくるので、世の中変わったなあという気持ちになる。<br>
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広告屋的に気になったこととしては、「エコ買い」や「エコ替え」というメッセージングである。「エコ買い」のほうは、スーパーで賞味期限の古いものから買うような、無駄な廃棄を減らす買い方がエコというような意味を持つようだ。「エコ替え」のほうはトヨタのメッセージで、燃費の良いクルマに買い換えようというような意味合いを持つらしい。<br>
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もともとエコは広告メッセージとして消化しにくい。そもそも、便益が個人にとっては具体的でない。さらに、エコが本質的に反消費的な意味合いを持つようにみえる。特に販促とは対立しやすい（ので、エコメッセージは企業ブランディングの観点で投下されやすい）。エコ関連のメッセージ開発においては、内容を具体的にしつつ、いかにそれを「節約」の比喩にしないかがポイントになるのだろう。「エコ買い」や「エコ替え」を見るに、そういう感想がわいてくる。<br>
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エコ関連である程度かたちになったという意味では、数年前の「ロハス」が思い出される。エコをファッションの道具の一つと設定することで、富裕層の自己表現としてのエコスタイルを売るというような方法だったと記憶している。個人的な好みは置いておいて、エコをエゴと絡めるのは一つの処方箋ではあると思う。<br>
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広告におけるエコメッセージ処理はまあこのくらいとして、もっと根本的なところで広告行為はエコとどう付き合うか、というのも一つの論点としてはあるだろう。広告行為におけるエコとは何か、みたいな。普通に考えれば上述したとおり「広告が煽る消費が悪い。広告はやめろ」というような結論になると思う。本当にそれで終わりなのだろうか。<br>
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私は広告屋なので当然「否」という答えになる。でも、今の広告はエコかといわれれば、それはやはり違う。資源の無駄遣いということは反論しようもないが、そういうことではなくて、反エコ的であると思われるポイントがあって、そこを改善しないことにはどうしようもないと思う。<br>
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具体的には、他人と比べてどうだというような、そういう相対比較の価値観を前提としたマーケティングはそろそろやめようよ、ということだ。これが広告における反エコであると思う。広告メッセージを出す企業も、それを受け取る消費者も、ある種の「差異化」中毒に陥っているのではないだろうか。いかに差別化するか？いかに多様化に対応するか？いかに周りと同じ流行に乗るか？<br>
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島国根性とでもいうか、日本は狭いところに多くの人がいて、しかも比較的、単一性の高い文化のなかにいるので、かえって個々人の差異に目が向けやすいと思う。「自分と他人は違うことが前提で共通点を探る」のではなくて「同じことが前提で差異をあらう」ような環境になりがちである。そんな環境に向けて、「○○に乗り遅れるな！」のように反脅迫的なメッセージングを繰り返すのは戦術としてはありうるけれども、やたら短期的に企画→販促→消費を繰り返す割には満足の効率が悪いと思う。この生産/消費量と満足のアンバランスさが反エコ的だ。<br>
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当たり前の話だけれども、どれだけ差別化しようが消費者はそのなかの一つの製品しか買いようがないのだし、どれだけ周りに人がいようが人生の取りかえっこができるわけではない。周りを見渡して、そこと何が違うかということで満足/不満足を決めるスタイルではなくて、個々のあるべき（ありたい）未来の姿に対してどれだけ達成していけているかという視点で満足/不満足を決めるスタイルをより取り入れたいところだ。そうすると当然、個々人（あるいは個々の商品）にとってあるべき姿というのは何なのかという話になる。ここでようやく、広告屋が存在意義を見いだせそうなフィールドになる。<br>
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広告においてエコ的発想というのは、ひとりひとりに対して、各々のビジョン（の選択肢）を提示してみせるということではないだろうか。これは消費者に対してだけでなくて、クライアント側に対してもそうである。誰か他人/競合商品と比べさせるような企画をするでもなく、その人/企業が向かいたい先を決めるサポートになって、いったん決まった向かう先に対してできることを提案する。<br>
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そういった活動強度をどこまで高められるかということが広告屋の品質基準になるだろうし、その際のコンテンツやメディアというのはまた違った役割を持つのではないかと思う。その結果、生産や消費に対する満足の効率を上げていくことが、広告屋のできるエコ活動だと思うのだが、どうだろうか。]]>
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<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51413778.html">
<title>プチ復習の偉人</title>
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<description>
何年も会社にいると、社の内外を問わず優秀な人に巡り会えることが多い。優秀さにはいろいろな側面があるものの、最近、大切な習慣があるということに改めて気づいた。話は非常に単純で、「復習をする」ということである。

クライアントに行くときは、様々な職群、たと...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2008-06-26T02:38:31+09:00</dc:date>
<dc:subject>業界雑談系</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
何年も会社にいると、社の内外を問わず優秀な人に巡り会えることが多い。優秀さにはいろいろな側面があるものの、最近、大切な習慣があるということに改めて気づいた。話は非常に単純で、「復習をする」ということである。<br>
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クライアントに行くときは、様々な職群、たとえば、営業職、マーケティング職、制作職それぞれ数人で出かけたりする。そして打ち合わせなりプレゼンなりを終えて、クライアントを後にする。そして、その優秀な人は、こういうのである。「15分だけコーヒー飲んでいきませんか」。さぼろうという魂胆ではたぶん、ない。<br>
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こちらのスタッフが5人なり10人なりいると、いったん解散した後の打ち合わせ設定は困難を極める。あの人の都合がつかない、あの偉い人が難色を示している・・・　結局、次にクライアントに行く直前に、社内打ち合わせが決まってしまったりする。これでは煮詰めたいアイデアも、発酵不足になってしまう。本当は、クライアントの意見を受けたすぐその後に、その復習を兼ねながら次回の作戦を練ってしまうのが早い。でも放っておくとすぐに何となく解散になってしまったりする。そこで、「15分だけコーヒー飲んでいきませんか」。<br>
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コーヒー代も何人分ともなれば、しかも毎回であるから、ちょっとはキツいものがあるだろう（経費かも）。でも、そのコーヒー代を補ってあまりある効能がそこにはある。クライアントの意見を受け、まさに頭が活性化している時点で次の作戦を練る。しかも、タイミングが早ければみんなのスケジュールを押さえるのもラクだ。時間が経った後に社内打ち合わせをやるとたいてい、「この前の話は何だったっけ？」となる。それで雑談に花が咲こうなら時間も無駄になる。それを考えれば、鉄は熱いうちに打て。15分のコーヒータイムは大きな効果を持つ。<br>
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社内ではなく、取引先にもその手の復習が上手な人がいる。こちらから発注して、仕事をしてもらって、納品を受けて、会計処理をする。会計処理の際に書類のやりとりをするのだが、その書類を機械的に処理せずに、直接手渡しで持ってくる。バイク便なりで送ってしまった方が、本当は効率的だ。でも、手渡しで持ってきて、「今回の仕事で問題はありませんでしたか？」と聞いてくる。メールでときおり顧客満足度調査をやったり、手紙でアンケートを送付してくる会社は多いが、こちらは多くの場合答え忘れる。手渡しの際に口頭で一言二言なら、こちらも抵抗がない。しかも本音が出やすい。うまいやり方だと思う。<br>
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仕事においては、事前に「こうするとあのクライアントはこうだから・・・」という予習は割とやるものだ。でも、復習の機会はあまり与えられていないことが多い。多くの場合、クライアントにいったんいけばすぐにみんな解散して帰りたくなるものだし、クライアントだって納品を受けてしまえばフィードバックすることを忘れていたりする。そんなときに、うまいこと機会を作り出して細かく復習することは、労力あたりの効果が非常に高いと思う。予習・復習なんて小中学校レベルの基本ではあるけれど、愚直で小さな復習の積み重ねは、大きな差を生むのではないかと改めて思う。]]>
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<item rdf:about="http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51411061.html">
<title>分析の続きにアイデアがあるか</title>
<link>http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/51411061.html</link>
<description>多くの広告代理店のプレゼンは課題抽出からはじまり、最終的にはプランや広告アイデアを説明する流れになっている。プレゼン上はこれらが流れるように進んでいくのだが、思考の流れはどうかというと、そんなにリニアなものではなく、実作業においては途中に大きな「溝」があ...</description>
<dc:creator>koukokugyokai</dc:creator>
<dc:date>2008-06-22T06:27:29+09:00</dc:date>
<dc:subject>クリエイティブ系</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[多くの広告代理店のプレゼンは課題抽出からはじまり、最終的にはプランや広告アイデアを説明する流れになっている。プレゼン上はこれらが流れるように進んでいくのだが、思考の流れはどうかというと、そんなにリニアなものではなく、実作業においては途中に大きな「溝」があり、それを超える必要がある。それを人によっては「クリエイティブ・ジャンプ」と呼んだりする。<br>
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有名な広告デザイナーの講習など受けていると、聞いていて「思考の道筋はわかるのだが、なぜそれを思いついたのか？」という事例などによくぶち当たる。なぜ思いついたのですか？と聞いても仕方がない。思いついたから思いついたのだ、ということになってしまう。別にそのデザイナーがコツの出し惜しみをしているわけではなくて、そこには立ち戻れない溝があるということだと思う。<br>
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課題を解決しようとするときには、どこを解決すればよいか？という視点で、問題点を洗い出したりする。人によっては、それを階層構造で分けたり、因果関係で再構築したりして、問題を構造化して整理したりする。まるでピラミッドを積み上げるがごとく、一つ一つ問題が積み上がっていく。そして全体の構造がクリアになってきて、「これを解決すればクリアだ」ということが、いくつかの要素あるいはいくつかの道筋で示されたりする。しかし、アイデアが出たかというと、それはそれでまた別問題になってくる。<br>
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課題という石ころをひとつひとつひっくり返していっても、そこに突破のためのアイデアは見つからないことが多い。たとえば消費者調査をやって不満点を洗い出し、一つ一つつぶしていくようなアプローチは、ある一定以上のレベルではつぎはぎだらけの張りぼてのようなものとなり、そのうち相互に矛盾をきたすようにさえなってくる。<br>
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かくいう私も、過去に思い当たる経験がある。自分の所属している部署の問題点とその構造をさんざん上司に語った上で、「ではおまえはどうするのがいいと思うのだ」と問われ、黙ってしまったのである（それを考えるのがあなたの仕事だろ、と逆ギレしそうになったが）。個人的な不満を起点に行動するとよく陥りがちな罠だとは思うが、そうでなかったとしても問題点からそのままアイデアが出てきたかというと微妙なところだ。<br>
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分析屋さん・批評屋さんは必ずしもクリエイターではないし、この二つは連続してもいないのだろう。この二つの職業は、直線では結ばれず、かなり遠いところにある。クリエイターになりたくて、その課程で批評家になるというコースはたまに見かけるが、職能としては全く別個のものだと思う。そこを間違えると、批評家としては大成するかもしれないけれども、クリエイター（アイデアを出す人）にはならないまま、ということもありうるだろう。本人が良ければそれはそれでいいのだが。<br>
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ところで広告にはカンヌ広告祭というのがあり、世界レベルで優れた広告を選ぼうという趣旨で、毎年いろいろな広告が選ばれている。部門はいくつかあるのだが、今年の<a href="http://www.canneslions.com/winners/media/win_1_1.htm">メディア部門のグランプリ</a>を例に考えてみる。<br>
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ケータイから自分の顔の画像を送る。すると、年老いた自分の顔が加工されて戻ってくる。何のキャンペーンかというと、年金のキャンペーンなのである。年老いた自分を想像することで、年金の問題を自分（とくに若者）に引きつけて考えてもらうことを主眼としている。たぶん技術者からすれば「なんだそんなことか」ということかもしれないし、仕組みだけみれば、よくある占いコンテンツと大きくは変わらない。しかし問題は、もし「若者に年金をアピールするプランを」とオリエンされたときに、このアイデアが出るかどうかである。<br>
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当然、オリエンを受ければ、若者の年金感だとか、年金制度の問題点だとか、色々分析のしようはあるだろう。その過程でアンケートをとるかもしれないし、そこでは「年金が身近に感じられない」といった課題が抽出されるかもしれない。分析行為である。で、身近に感じてもらう、感じてもらう・・・というところでおそらくいったん行き詰まる。<br>
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ここから先は、順列組み合わせではないが、めぼしいアイデアを探しに行く作業になる。探しに行く先は自分の記憶もそうだし、周りに落ちているネタも探しに行かなければいけない。「若者と年金を結ぶアイデア・・」と唱えながら、その視点ですべての記憶や風景をサーチする。それは、若者分析や年金分析といったものとはまったく異なる作業になる。ゼロから探し始めても途方に暮れてしまうだろう。そのためには、普段から目の前の風景を「アイデアの種」として取り込んでおく必要がある。将来なにに使われるのかはわからないが、ある程度の、ある角度から抽象化したネタとして自分の中に昇華しておくこと。それをするかしないかが、クリエイターか否かを分けると思われる。<br>
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そのあたりのヒントは、優れたクリエイターのエピソードからうかがえる。まずは任天堂の宮本氏。<br>
<blockquote>アイデアを出す会議などで、「この問題をどうしよう？」ということを話し合っているときに、当然いろんな人がいろんなこと言うんですけど、たいていそれは、ひとつの問題を解決するだけで、ほかの問題を解決させるわけではない。つまり、汗をかいた分しか前進しないんです。（中略）でも、ときどき、たったひとつのことをすると、あっちもよくなって、こっちもよくなって、さらに予想もしなかった問題まで解決する、というときがあるんですよ。そういう「ひとつのこと」を、宮本さんは「ないか、ないか」っていつも考えてるんです。ものすごくしつこく、延々と。<br>
（<a href="http://www.1101.com/iwata/2007-08-31.html">アイデアというのはなにか？－ほぼ日刊イトイ新聞</a>）</blockquote><br>
もうひとつ、孫引きになってしまうのだが、デザイナーの奥山氏。<br>
<blockquote>僕らの商売には「ハレとケ」ではないが、２つのモードがある。１つめは「溜め」で、自分の中で材料を溜め込み、熟成し、並べ替える作業をしている。これは外から見ても知ることのできない部分で、一見何もしていないかのようだ。もう１つは「発散」で、一気阿成」にアウトプットするモードだ。絵を描き、シナリオを形にし、成果物として世に問う。人はこの部分だけを見て、仕事をしていると思うものだ。<br>
（<a href="http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/06/15-110000.html">人生を決めた15分 創造の1/10000 - 情報考学 Passion For The Future</a>）</blockquote><br>
ひどく大ざっぱにいうと、彼らは、「どんな問題点に対してどんなアイデアが適用され、その結果どういう解決をもたらしたか」ということを普段からずっと観察し続けているのだろう。それが、いざ仕事となったときに、脳の中で編集されて適用される。その過程には無意識のブラックボックスがあるのだろうが、いずれにせよ最初のインプットがないとはじまらない。アイデア出しは（仕事のオリエンを受けて）分析から始まるプロセスではなく、普段から観察し、編集し続ける一つの姿勢であるようだ。アイデアは一日にして成らず、かもしれない。]]>
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